進軍
クラリスは、その日も中庭の隅にいた。
身を隠す魔法を使うたびに酷い臭いは撒き散られ、いくらローブの中にいたとしても、自分がどんどん臭くなっていくことに気づく。
だが同時に、攻撃の式の改良も続けていた。尖った針のような山を作るの現実的になってきていて、クラリスの胸は熱くなる。
二枚の紙を交互に睨んでいると、足音が近づいてきた。顔を上げると、エリザベスだった。
「王妃様。……陛下が、探しておられます」
「え。……ジルが?」
なぜ、ジルの伝言をエリザベスがと思うとクラリスの気持ちは急速に冷えていく。帳面を閉じて立ち上がった。
エリザベスは「こちらです」と、東棟のほうへ歩き出し、その背中に無言でついていく。
エリザベスは今日も美しい金髪を高いところで結んでいる。その色は輝くようなジルヴェスターの髪とは違っていたが、クラリスは自分の臭くなった茶色の髪を指でとかしながら、羨む気持ちを抑えられない。
人気のない廊下に差しかかったところで、エリザベスが、ふいに足を止めて、振り返った。
青い釣り目が、揺れていた。いつもの、きりりとした騎士団長の顔ではなかった。
「あの……王妃様の、お兄様は」
クラリスは、身構えた。ジルの話をされると思っていた。
「ヴィルス王太子殿下で、間違いございませんか」
「……お兄様?」
思いがけない名前に、拍子抜けした。エリザベスは、青いドレスの裾を、指先で少し握って、俯いた。
「そうですが….」
「実は……お恥ずかしい話なのですが」
頬が、みるみる赤くなっていく。
「十年前。私が、十四のときです。帝国がまだ閉ざされる前、大陸の交易の集まりで、一度だけ、殿下と踊ったことがあるのです。……たった一度なんで、ヴィルス王太子は覚えていないかもしれません。ただ、それきり、忘れられなくて」
「……」
「けれど、すぐに帝国は閉ざされてしまって。連絡を取ることも、できず……ずっと、お元気でいらっしゃるかどうかも、分からないまま」
もじもじと、指を絡めている。あの、剣を提げて堂々と広間を歩く人と、同じ人とは思えなかった。
クラリスはそんな姿を少し呆けて見ていたが、思っていたことを口にする。
「……てっきり、わたし、あなたが、ジルヴェスターに興味がおありなのかと」
エリザベスが、顔を上げた。目を、丸くしている。
「アルダーン陛下? ……なぜ、ですか?」
「え、いえ、その、ずっと隣にいらしたし……」
クラリスは言いながら、何でそう思ったのか今やよく思い出せないことに気づく。ただの嫉妬心からの思い込みだったのかもしれないと思うと、急に恥ずかしくなり顔が赤くなる。
「あ……」
エリザベスは、少し困った顔をして、頬に手を当てた。
「もしかしたら……申し訳ありません。私、この十年、聖騎士の方々に、尋問とまでは言いませんが、かなり詮索されてきたもので。誰が敵で、誰が味方かも分からない中で。……陛下は、そういう目で見ずに、普通に接してくださった数少ない方だったので。つい、甘えてしまったのかもしれません」
クラリスは、気が抜けた。抜けたけれど——この人は、こんなに美人で、聡明で、剣も強い。それに、ジルヴェスターが彼女と交渉して説得したというのも…まだ何か、胸の隅がもやもやし、そして嫉妬を止められない。
必死に、平静を装っていると——
「クラリス。こんなところにいたのか」
廊下の向こうから、ジルヴェスターが歩いてきた。
「探したよ。……エリザベス騎士団長、妻を返してもらっても?」
エリザベスは、さっと騎士団長の顔に戻って、頭を下げ、廊下を戻っていった。ジルヴェスターは、その背中を一瞥して、それからクラリスの手を取って歩き出した。
「何を話していた」
「…別に、なんでもないです」
素っ気ない返事に、ジルヴェスターは困った顔をする。だがクラリスがそれ以上何も言わないのをみると、小さく息を吐き、そのまま進んだ。
司令官の間ではなく、二人の部屋に連れていかれた。地図が、卓に広げてある。ジルヴェスターは、その一点を指した。砦から帝都へ向かう道の、途中の領。
「ここ数日、隣の帝国貴族領——ダルク伯爵領と、連絡を試みていた。だが、返事がない。それに使者も戻らない」
指が、その印を、とん、と叩いた。
「置かれていた魔獣に、もうやられている可能性がある。帝国は各領地に魔獣を置いて領民を人質にしてきたわけだが、それでも侯爵家が帝国を裏切ったからな。他の領をそのまま放置することはないだろう。いずれにしても帝都への道は、あの領を通ることも考えれば、できれはばそこで食糧の補強もしたいし、そこの要塞を次の拠点としたい」
「全軍で、ですか」
「ああ。ここの砦は、エリザベス騎士団長と侯爵の兵で引き継ぎ守る。……ただ、全軍で動くと、動きが遅いし、僕たちも食糧を失ったら終わりだ。だから、先を行く舞台と、荷を運ぶ本隊とに二つに分ける」
「先は……ジルが?」
「僕と、クロア卿、聖騎士、騎兵を三百。明日には出て二日で行く。本隊は、チェーザレとユアン、ラウレンツ、それにルーク。準備でき次第出発してもらう。先のダルク伯爵領で何かあれば先方隊からすぐに連絡をいれる」
そこまで言って、ジルヴェスターは、少し言い淀んだ。
「きみは……どちらでもいい。僕と一緒に来るかい?」
てっきり、安全な本隊にいろ、と言われると思っていたため、拍子抜けした。
クラリスは、ジルヴェスターと一緒にいたいと本心では思った。だが、同時に、エリザベスとのことで、やはりやましいことがあり、こんな提案をしてくるのでは無いかと頭を巡らす。
「……後方で、大丈夫です」
クラリスは、口元を震わす。
「ユアンもいますし。それに、荷を運ぶ本体の方が安心でしょう?」
ジルヴェスターは、少し意外そうに、眉を上げた。今度は自分から離れると言い出したのが、心外だったのかもしれない。
「……そうか」
そう言って、彼はクラリスの髪に触れた。少し、不服そうな手つきだった。だが、安心はしたのか小さく息をついた。
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