魔法式2
結局、ルークに「ちゃんと整えてください」と言われて、クラリスは毎日、その式を書き換えることになった。
場所は、中庭の隅。兵たちが剣を磨いたり、馬の手入れをしたりしている脇の、日当たりの悪い場所。そこにある小さな岩に腰を下ろして、土を自分の腕に纏わせては消し、節を削っては足す。攻撃の式は一向に前に進まないのに、皮肉なことに、この改良だけが、驚くほどうまくいった。
四日目には、砦の倉から出てきた欠けだらけのガラクタのような魔石でも、風がなく、日が高くない、という条件さえ揃えば、長い時間、人ひとりを周りから見えにくくしておけるようになっていた。
その日も、一人で粉を作って、自分の腕に纏わせて試していると、誰かが近づいてくる。
「ルークに、伺いました」
顔を上げると、セラフィンが立っていた。
白と灰色の間のローブ。銀の髪に、整った深い青の目。足音もなかった。
「……身を隠す魔法を、見せていただけますか?」
彼は、横に控えていた聖騎士に目で合図をする。すると、すぐに若い聖騎士が、黙って中庭の真ん中まで歩いていって、そこに立つ。
「あの騎士に、お願いします」
クラリスは、ちらりとセラフィンの横顔を見上げる。彼は視線に気づくと、早くしろ、と言わんばかりに、顎で中庭を示した。
クラリスは、命令口調の聖騎士に小さく息を吐き、すばやく式を展開した。
土が砂状になり、色を失って、ふわりと浮く。それが中庭を横切って、若い聖騎士の周りに、薄く、薄く、纏わりついていく。灰色のローブの輪郭が、ぼやけた。ぼやけて、背後の石壁に溶ける。
セラフィンは、それを黙って見ていた。
「……どの程度、保ちますか」
「小さい魔石で、五時間ほどは」
彼は、少し考える仕草をした。顎に指を当てて、中庭の聖騎士を、じっと見ている。
「これに、臭いを入れられますか」
「……臭い?」
思いがけない問いだった。クラリスは、少し考えた。粉は土でできている。土に、何かを混ぜることは——
「たとえば、ニガヨモギのような薬草を、粉にして最初に混ぜてしまえば……粉が纏わりついている間じゅう、その臭いを持たせることは、できると思います」
「魔獣は、嗅覚が強い」
セラフィンは、少し考えるように眉を寄せたが、すぐにクラリスを見ると、ちょっとついてきてください、と言った。
彼は中庭を横切り、クラリスはあたふたとついていく。中庭の奥にある蔵に向かっているようだが、近づくと異様な臭いがしてきた。クラリスは思わず鼻を袖で抑える。
「何の臭いですか?」
「マンティコアです。マンティコアの尻尾の血の臭いは、強いことで知られています」
セラフィンの鼻は機能していないのかと思うぐらい、無表情のままだ。
蔵を開けると、酸っぱいような、腐ったような臭いが、わっと広がった。クラリスは急いで髪をローブの中に入れる。とてもじゃないが、洗っても簡単には取れなさそうな臭いだ。
「この臭いを、使ってもらえますか。聖騎士に、尻尾から血を集めるよう指示しておきます」
この臭いを扱わないといけないのかと、クラリスは目を見開いた。
「人がいることを獣に知られずに進む方法を、探しています。……数日で、考えてもらえますか」
だが、セラフィンは当たり前のように話す。問いの形をしていたが、問いではなかった。有無を言わせない声だ。
クラリスは、大きな瞳を、曇らせた。数日で。攻撃の式も止まっているのに。そして、この臭い。
……でも、この人も、この人で、なかなか大変らしい。戦闘では常に先頭で、聖女の命令の荷を背負い、そんな状態で聖騎士が割れはじめて、それでも軍議で戦略を組んでいる。そう思うと、嫌とは言えなかった。
「……分かりました。やってみます」
クラリスは、とにかく急いで、臭いから離れるように、さっきまでいた中庭の片隅に戻る。まだ、鼻についた臭いが取れない。
帳面を開いて、早速、式を見つめ直す。臭いの節。粉に何かを閉じ込める節。土の粒の中に——
気づくと、セラフィンはまた隣にいた。
式の展開をもう一度待つつもりなのか、近くの岩に腰を下ろして、そのまま動かない。膝に肘をついて、中庭のほうを見ている。
クラリスは、帳面に目を落とした。落として、節をひとつ書いて、消した。もうひとつ書いて、消した。……頭が、回らない。この人がそこにいると、どうにも緊張して、式が組みにくい。
しばらく、粉の残りが地面に静かに落ちていく音だけがしていた。
クラリスは、おずおずと、口を開いた。
「……あの。聖女様の命を破って、大丈夫、だったんですか」
セラフィンが、こちらを見た。
片眉が、上がった。雑談を振られたことに驚いたような顔だった。それから、彼は小さく、ため息をついた。
「ご心配には、及びません」
低い声だった。冷たく、硬い。
「私たちは、神に仕える者です。聖女は、その使徒の一人にすぎない。……沿うべきは、神の命のみです」
言い切って、彼は中庭に目を戻した。銀の髪が、風で一筋、頬にかかる。
クラリスは、その横顔を見る。あまりにも整ったその顔は、冷酷で無慈悲だった。だが、その表情を作り出したのは、魔人を八百年も見張ってきたためなのだろうか。そんなことを考えていると、自然と口が開いた。
「……銀の輪のことは知られてしまいましたが、協力は得られましたよね。それで聖騎士の皆さんの重荷が、少しでも降りたなら、いいですね」
反応は、なかった。
気まずくなって、帳面に目を戻し、またちらりと彼を見る。
彼は、こちらを見ていた。
その目は、初めて見る獲物を、飛びかかる前にじっと測っている猫のような目だった。
「……ど、どうして、そんな目で見るんですか」
慌てて言うと、セラフィンは、首を傾げた。
「いま、その……猫みたいな目で、見てましたよね?」
「……猫」
彼は、一拍、黙った。自分でも気づいていなかった、という顔で、一度、瞬きをする。
「……失礼しました」
岩から、立ち上がった。ローブの砂を払って、いつもの無表情に戻る。
「今度からは、顔に出ないよう、心がけます」
それだけ言って、彼は中庭を横切って、去っていった。若い聖騎士が、慌てて後を追う。
クラリスは、帳面を膝に置いたまま、しばらくその背中を見ていた。
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