終戦4
目が覚めると、窓の外が茜色だった。
丸一日近く、眠っていたらしい。寝台にジルヴェスターの姿はなく、代わりに、椅子の背に彼の上着が掛かっていた。クラリスのために、着替えも置いてある。ジルヴェスターも、少しは寝たのだろうか。
身支度をして、厚手の長い上着を着て廊下に出ると、ニクラスが扉の脇に立っていて、クラリスを見ると満面の笑顔を見せた。
「奥様! 休まれて顔色がよくなり、とても美しいですね!」
クラリスは、顔が引きつらないように、笑顔を作る。ニクラスは今まで下ろしていた前髪が伸びたのか後ろに流していて、少し大人びて見えた。
「ありがとうございます。ニクラスも休めましたか?」
「はい。侯爵領からも多くの物資が届いておりますので。帝国領でこんなに歓迎されるとは思いませんでした。……ただ、死者もかなり出ています」
ニクラスは、アーモンド型の目を暗くする。
だが、クラリスの瞳に苦痛が浮かぶのを見るとすぐに、「でも戦は終わりました!」と明るく言うと陛下はこちらですと案内した。
広間には、ジルヴェスターとルークが、机を挟んで立っていた。何か深刻な顔をしている。
二人とも湯には入ったのか、さっぱりとしていて、ジルヴェスターはカジュアルなシャツの上に、長い黒いコートを羽織っている。砦の中でもかなり冷える季節になっている。
卓の上に、地図が広げてあった。見覚えのある地図だ。聖国の軍議で見た、あの調査の印が散った地図。ルークは椅子に手をかけながら、パンではなく、今日は乾した果実を齧りながら、その印を眺めていた。
「ああ、奥様。おはようございます。……もう夕方ですけど」
「……随分、寝てしまいました」
「三日分ですから」
ジルヴェスターがクラリスを手招きし、クラリスは彼の隣へ行った。ジルヴェスターはクラリスの髪を撫でると、髪飾りに触れた。
「なんだ、まだこの髪飾りをつけていたのか」
起きた後、ルークがつけてくれた銀の細工が施された髪留めを付け直したのだ。
だが、ジルヴェスターはそのまま片手で外し、ルークに返す。
「戦にほかの髪飾りを持ってきていなかったので」
銀の細工が凝っていて綺麗だったので気に入っていたこともあり、クラリスは名残惜しく、ルークが受け取るのを見つめる。
「アルダーンに帰ったら、すぐに買ってあげるから待っててくれ」
ジルヴェスターは髪にキスを落としながらそう言ったが、クラリスは、帰るまでは借りていてもいいでしょうかとルークに言いかけたところで、扉が開いた。
セラフィンだった。白と灰色の間の色のローブは新しいものに替わっていたが、その顔には、珍しく疲れの色があった。
「呼び出しか。手短に頼む。こちらも忙しい」
「ああ、忙しそうだな」
ジルヴェスターは、穏やかに言った。
入り口にいるニクラスに目で合図をすると、ニクラスは扉を閉める。
「昨日から、あなたの騎士たちを砦じゅうで見かけた。司祭の居室。礼拝堂。書庫。地下の倉。……床板まで剥がしていたそうだが。何か、失せ物か」
セラフィンは、答えなかった。立ったまま、卓の地図に目を落とす。
「……それを訊くために呼んだのなら、時間の無駄だ」
「僕が訊きたいのは、この戦の意義だ」
ジルヴェスターは、卓の上に両手を置いた。
「アルダーンの戦の目的は、この砦で果たされた。高原の口は塞いだ。うちの民を脅かすものは、片づいた。……このまま帰ってもいい、ということだ。侯爵と盟を結び、砦の守りを固めて、千人を連れて国へ帰る。誰も、僕を責めない」
「聖戦は終わっていない」
ジルヴェスターは鼻で笑った。
「聖戦とは、何なんだ? そもそも魔人ではなくて、神殿の司祭だったじゃないか」
静かな声であったが、目には冷笑が浮かぶ。
セラフィンは、地図から目を上げなかった。答えるつもりがない、という沈黙だった。
「……司祭、といえば」
ルークが、果実を置いた。誰も彼を見なかったが、彼は構わず、地図の上に指を置いた。帝国領の、印のひとつ。それから隣の印。またその隣。
「聖国のこの調査、印の散り方をずっと考えていたんですけどね。軍事拠点でも、水場でも、街道でもない。……全部、神殿なんですよ。帝国じゅうの神殿を、何年もかけて、しらみつぶしに調べている。で、いまこの砦でも、礼拝堂の床板を剥がしている」
指が、地図から離れた。
「聖騎士たちは、元々司祭が魔人の魔術と繋がっていることをご存知でしたね?」
セラフィンは目を伏せたままだ。長いまつ毛が影を作る。
「それで、もうひとつ。高原で奥様が言ったでしょう。聖女とアルダーン王は、なぜ別々に帰ったのか、って。……あれから、ずっと考えていたんです」
ルークは長い指で机をたたく。
「聖女は、あんな岬に国を作って、閉ざした。しかも聖騎士という軍隊を、八百年、持ち続けた。外から攻められたことなど一度もない国が、です」
ルークは、息を吐くように続けた。
「守るためじゃない。……見張るためだ。聖女は、魔人との戦から、魔人の力をを持ち帰った。だから国を閉じて騎士団を置いた。……そしてそれが今、神殿の側に渡っている。だからあなたたちは、神殿を探している。——違いますか」
クラリスは、息を止めていた。聖女が魔人の力を持ち帰った?信じられない推測に驚き、ジルヴェスターをみたが、彼は推測の範囲内というように落ち着いている。
そして、ジルヴェスターが、考えるように顎を触った。
「魔人の力を宿す、聖物か何か……といったところか」
セラフィンはそれでも動かなかった。
「まあいい。それでも沈黙を続けるのであれば、こちらも参戦を辞退しよう。そもそも、聖戦などというものには興味がない」
ジルヴェスターは、嘲るように言った。クラリスは、アルダーンと聖国の協定に基づいて参加したのではなかったのかと驚いて、目を瞠った。
「帝国を撃つことは、アルダーンを守るという意味でも必要だった。だから、その提案に乗って、参戦したに過ぎない」
ジルヴェスターは、まっすぐにセラフィンを見た。
「教皇令とらや従って、ここまでは来た。だが、正直、我が国としては十分だ。この先——帝都まで千人を進ませるなら、僕は王として、何のために兵を死なせるのかを知っていなければならない。いるかいないか分からない魔人を打つためでは、もう足りない。協定などという過去の遺産に振り回されるつもりはない」
広間が、静かになった。
セラフィンは、動かなかった。地図を見下ろしたまま、彫像のように。窓から差す茜色の光が、その白いローブを、燃えるような色に染めていた。
「……教皇聖下の名の下に、言えることではない」
「では、教皇聖下に伝えてくれ」
ジルヴェスターが、卓にある水を飲み干す。
「アルダーン王は、目的を知らされない戦に、これ以上一兵も出さない、と。……使者の往復に一月か。ちょうどいい。その間に帝国の反撃が来る。砦は、侯爵と我らで守る。聖騎士団は、どうぞ探し物を」
「————」
「言っておくが、脅しではない。王として当然のことを言っている。……ただ」
彼は、少しだけ声を落とした。
「四十七人。それに、昨日の百。僕は兵の名を全員覚えている。彼らが何のために死んだのか、分からないままでいることを——あなたは神に誓って正しいと言うのか」
セラフィンの目が、初めて地図から上がった。
長い沈黙だった。茜色の光が、少しずつ濃くなっていく。やがて、彼は椅子を引いて、腰を下ろした。それが、答えだった。
「八百年前、魔人と戦い滅ぼしたとされるのは——アルダーンの王。聖女。それから、騎士団だ。……おそらくアルダール国側の記録では、そこまでだ。だが、聖国では、聖女は魔人を滅ぼしてはいない、と伝わっていた。魔人が封じられただけで、封じられてるとされる銀の輪は、八百年間、聖国に保管されていた」
銀の、輪……
クラリスは、思わず心の中で繰り返した。何か魔道具なのだろうか。
「聖女はそれを、西へ持ち帰った。誰にも告げず、国を閉じて、守り続けることを命じた。それが我が国の——本当の成り立ちだ。……そして十年前」
セラフィンの手が、卓の上で、ゆっくりと拳になった。
「裏切りの司祭が、それを盗み、そして神殿を通じて、帝都へ運ばれた。……帝国が変わりはじめたのは、その直後だ」
「————っ」
ジルヴェスターの目は黒々としている。
「本当に、八百年、魔人が滅んでないこと隠してきたわけか。…一体何のために?」
「…神の使徒である聖女の命だ」
セラフィンのその言い方は、背筋が凍るほど冷たく、冷笑が混じり、とても敬っている人に対する発言とは思えなかった。
ジルヴェスターはじっとセラフィンをみて続ける。
「それに聖国は、十年、黙っていたということか。封印された魔人が盗まれたことを知ってて。……高原の獣が増えたのも、焼印も、五年前からの井戸も、全部その後だ。我が国の被害を分かっているのか——」
「言われるまでもない」
セラフィンの声が、初めて、割れた。
「十年。我々は探し続けた。国を閉じたまま、騎士を大陸じゅうに放って。……我々の罪だ。それを否定するつもりはない」
彼は顔を上げた。茜色の光の中で、その凍った湖の色の目に、クラリスは初めて、底を見た気がした。
魔人…あの司祭にむけた黒々とした目の正体。八百年守ってきたものに対する、執着なのかもしれない。
「聖戦の目的は、魔人の討伐であることは間違いないが、……銀の輪の、奪還でもある。あれが帝都にある限り、封印は開き続ける。いまはまだ、完全ではない。だが、いずれ」
「いずれ?」
「…前も言ったが、なぜ十年経っても完全に戻らないのか、我々にも分かっていない。」
ジルヴェスターはセラフィンをじっと見たあと、机に目を落とす。
「なるほど。……聖騎士たちも、ある意味、被害者というわけか。聖女が持ち帰ったその輪のために、ずっと閉鎖的な世界を作ってきたということになる」
外から、鐘の音が、聞こえてきた。
低く、ゆっくりと、間を置いて鳴る鐘だった。祝いの鐘ではない。セラフィンが立ち上がり、窓の外を見て、短く言った。
「……弔いだ」
砦の中庭に、夕暮れが降りていた。
面白いと思っていただいたら評価とブクマお願いいたします!




