終戦2
その後広間に帝国兵がやってきて、幹部だけの軍議が開かれることが告げられる。
クラリスもルークの後についていく。
会合は、砦の中でいちばん大きな部屋で開かれた。
司令官の間、というのだろうか。黒い石の壁に、色褪せた帝国の軍旗と、歴代の司令官らしき肖像画。長い樫の卓が中央に据えられ、その上に、まだ戦塵の匂いの残る地図が広げられている。高い窓から、いつのまにか朝の光が斜めに差し込んで、宙に舞う埃をきらきらと照らしていた。
卓には、ジルヴェスター、ラウレンツ、ディートリヒ、そしてセラフィンがすでに座っている。
いつも彼の背後に影のように控えている聖騎士たちの姿がなかった。そういえば、広間でも、廊下でも、灰色のローブを見かけなかった気がする。
クラリスは、ルークとともに、テーブルの端の椅子に腰を下ろして、ふと朝日に照らされた自分の姿を見た。
ひどかった。ローブは茨で裂けて泥だらけ、袖口は土煙で灰色に染まり、髪は——触るまでもなく分かる。ぐちゃぐちゃだった。編んでいたはずのものがほどけて、枝葉の切れ端まで挟まっている。
少し遠くに座るのジルヴェスターを、ちらりと見る。
同じ夜を越えて、同じように泥と血に汚れているのに、この人は輝いていた。
頬に散った土汚れが、彫りの深さを際立たせている。汗で額に張りついた金の髪までもが、朝の光を受けて、妙な色気を漂わせている。
世の中は不公平にできている。クラリスはそっと、ほどけた髪を耳の後ろへ押し込む。
「ルーク、すみませんが、髪についた枝を取ってもらえませんか?」
ルークが、明らかに面倒そうな顔をし、葉っぱをとる。その後少し考えたような顔をし、ルークは自分のの髪につけていた銀色の綺麗な細工がされた髪留めを取ると、クラリスの髪をまとめるようにつけた。
「まあいいでしょう」感情の薄い声でルークがぼやく。
ジルヴェスターと目が合う。
彼が何か言い出そうと口を開いた時、扉が開いた。
「お待たせしました」
入ってきたのは——女性だった。
クラリスは、思わず見つめた。
背が高く、軍装の上からでも分かるしなやかな立ち姿。切れ長の、少し釣り上がった青い目が、朝の光の中で宝石のように光っている。艶のある髪は頭の高いところでひとつに結われ、毛先にゆるくカールがかかって、歩くたびに揺れた。そして、その腰には、飾りではない剣が提がっていた。
彼女は卓を見渡し、ジルヴェスターの姿を見つけると、にこりと微笑んだ。花がほころぶような、迷いのない微笑みだった。そして、空いていた席——ジルヴェスターの隣に、当然のように腰を下ろした。
「改めまして。ラリア侯爵が娘、エリザベスと申します。この砦の騎士団長を預かっております」
騎士団長?この人が?
ふとルークが、騎士団長との交渉はジルヴェスターの得意領域だったから簡単だと言っていたことを思い出す。
胸の中が、ざらり、とした。
一体どんな交渉をしたのだろうか。
「……皆さま、このたびは。無事に戦が終わって、本当によかったです。積もる話はございますが、皆さま夜を徹しておられます。今は短めにして、いったん休みましょう。部屋の支度も進めさせておりますので」
てきぱきとした、気持ちのいい話し方だった。気持ちがいいはずなのに、彼女の視線が話の合間あいまにジルヴェスターへ戻っていく気がして、クラリスを刺激する。
「砦に忍び込んでこられたときには、驚きましたが」
エリザベスは、ジルヴェスターのほうへ少し体を傾けて、続けた。
「正直に申し上げれば……助かりました。いま、帝国の各貴族領には、魔獣が送り込まれております。守り、という名目で。実際は監視です。我らラリアも、獣に見張られ、管理されておりました。逆らえば、獣が放たれる。……このたび、あの獣どもから解放していただいた。父も、同じ思いのはずです」
そして、全体を見渡すと彼女はいう。
「ご存知の通り、ラリア侯爵領とこの砦は、帝都に次ぐ規模の要塞を擁しております。今後は、ここを拠点として、帝都を取り戻す——ということで、よろしいかと。ラリア侯爵の軍も共に戦うことを宣言します」
帝国で最も大きい貴族が帝国と戦うと言っている。その決断は大きい。頭の隅で、そう思った。思ったが、頭の大半は、別のことでいっぱいだった。
彼女の椅子が、ジルの椅子に、近くないだろうか。
クラリスは、こめかみを押さえながらも、あの二人から目が離せない。頭が、がんがんと痛かった。マナはとうに底をついていて、体は椅子に沈んでいくように重い。限界だった。すぐにでも横になりたい。——なのに、立てなかった。この美しい人とジルを同じ部屋に残して出ていくことが、どうしても、ためらわれた。
「奥様、あの、そんな目線で見続けると何事かと思いますよ。陛下に穴が開きます。」
隣からルークが呆れたようにいう。
そんなに酷い目で見てたのだろうか。ふと気づくと入り口にいるニクラスまでも心配そうな面持ちでクラリスをみていた。
「……奥様…ご心配なさらずとも」
すると、逆の隣から、ラウレンツが小声で言った。
「陛下は女遊びなどというものは一切なさいませんし、それはもう、奥様を溺愛しておいででです。他の女性に触れるなんてことは一切しないでしょう。それに奥様と出会う前も、多数の女性から迫られることはあっても、陛下がそれに対応することはありませんでしたよ!」
ラウレンツの声は少しずつ大きくなったため、クラリスは周りの反応が気になり、もう黙ってと、ラウレンツを睨む。
そしてクラリスは、卓の向かいのセラフィンを、恨めしく見た。
この人が、もっと愛想よくすればいいのに。黙って座っていれば、吟遊詩人の絵姿のような美貌なのだ。少し微笑みでもすれば、エリザベスはきっとあっという間に、あちらに夢中になるに違いない。当のセラフィンは、会話に加わりもせず、静かに入ってきた聖騎士と何かを会話している。
だめだ。もう、本当に限界だった。
「……すみません」
クラリスは、卓に手をついて、立ち上がった。
「限界なので……休みますね」
言った端から、視界がぐらりと揺れた。
するとジルヴェスターがすばやく立ち上がって、大股で駆け寄ってくる。倒れる前に、腰を支えられた。
「妻が疲れているようなので、会議はあとにしてもらおう」
彼はそう言って、部屋を見渡し、それからセラフィンのほうへ、薄く笑った。
「聖騎士も——さきほどから何かを探し回って、ずいぶん忙しそうだしな」
セラフィンは聖騎士とまだ話していたが振り返り、ジルヴェスターを見た。何も言わなかった。何も言わないことが、何かを言っていた。
クラリスがそれを考える間もなく、体がふわりと浮いた。
「え……ジ、ジル?」
抱き上げられていた。皆の前で。横抱きに。そして彼は、当たり前のように身を屈めると、クラリスの額に、キスを落とす。
身体中が熱くなる。
「——妻?」
エリザベスの声が、裏返った。
見ると、あの美しい釣り目が、これ以上ないほど丸くなって、抱き上げられたクラリスと、ジルヴェスターとを、何度も往復していた。
妻ってことは、シェルナ国の第三王女ってこと?といったことをエリザベスは呟いていたが、クラリスはジルに抱きしめられたことで頭がいっぱいで上手く思考が働かなかった。
「妻だ」
ジルヴェスターは、それだけ簡潔に言った。それだけ言って、泥だらけの妻を抱いたまま、朝の光の差す司令官の間を、悠々と出ていった。
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