終戦
倒れたマンティコアの体から、まだ湯気が立っていた。
「……ジル」
呼んだ声は、掠れて音にならない。
ジルヴェスターは剣を下げ鞘に戻すと、何も言わずにこちらへ歩いてくる。頬には泥と血で汚れていて、瞳は黒々と燃えているようだ。
「後方にいろと、言ったはずだが」
声は低い。感情を抑えようとしているようだ。
「……ここは」
クラリスはジルヴェスターが怒りに満ちていることは理解していたので、なんとか喜びでしゃくり上げそうになるのを堪える。
だが、その人がそこにいる。生きて、歩いて、近づいてくる。それだけで、目の奥が熱くなって、視界が滲んだ。
「後方、でした。壁の、後ろ……」
そう言って、我慢できずジルのところは走って抱きついた。そこにいることをどうしても確認したかった。
「…これだけ砦の近くが、どうやったら後方なんだ」
彼の声には呆れが混じって、ジルヴェスターは額を抑えながら眉を顰める。
だが、怒りは収まってしまったらしい。
彼はクラリスを離すと、裂けたローブと、茨で傷ついた脛と、土だらけの顔を、順に見た。それから、深く息を吐いて、両腕でクラリスを抱き寄せた。
鎧が冷たくて、硬くて、血と土煙の匂いがした。
叱られている。分かっていた。分かっていたのに、頬が勝手に緩んでいくのを、止められなかった。会えた。無事だった。鎧の胸に額を押しつけて、クラリスは声を殺して泣いた。ジルヴェスターの手が、ぐしゃぐしゃになった髪を、一度だけ、ゆっくりと撫でた。
「……この話は、あとだ」
頭の上で、そう言う声は、もう怒っていなかった。
戦場ももう落ち着いたようで、静まっている。
ふと見ると、壁の上から、灰色の影が降ってきた。
セラフィンだ。胸壁から鎖も使わずに身を躍らせ、途中の張り出しを一度蹴って、猫のように音もなく着地する。
そのまま彼は、壁の下に落ちた黒いローブの——上半身のほうへ、歩いていく。
膝をつき、フードをめくる。
クラリスの位置からは、死者の顔は見えない。ただ、セラフィンの背中が、一瞬、止まったのが見えた。何かを確かめるように、長いあいだ動かず、それから顎で合図をする。駆けつけた聖騎士がふたり、白い布を広げて、遺体を静かに丁寧に包む。敵に対するものとは思えない、まるで——葬送のような丁寧さだ。
包みを担いだ聖騎士たちが、砦の中へ運んでいく。
ジルヴェスターもその様子をしばらくじっと見ていたが、クラリスの方を向くと、砦の中で休めるからおいで、と手を引いた。
砦の中は、広く、砦のような、城のような要塞だった。
広間に、怪我人が次々と運ばれてくる。クラリスは、へとへとであったが、治療にあたろうと近くにいく。
ジルヴェスターは何か言いたそうだったが、ラウレンツが彼のところに飛んできて話し出す。
クラリスは、怪我人に目を向ける。
「毒消しを! 尾にやられた者を、こっちへ集めろ!」
帝国側の医者が叫んでいる。マンティコアの尾の毒だった。刺された兵の傷口が黒ずんで、腕が丸太のように腫れ上がっている。帝国の医者が薬草を掴み取り、それを——見覚えのある銀の髪が、受け取っていた。
「ルーク!」
彼は、片手に食べかけのパンを持ったまま、もう片方の手で兵の腕に軟膏を塗り込んでいた。振り返って、クラリスを見ると、いつもの気だるげな顔で、パンを咥えて片手を上げた。
クラリスはルークの隣に座り込む。
「……ああ、奥様。ご無事で」
ルークはそう言いながら、クラリスをじっと見ると回復魔法をかける。大事な魔力は兵士に使って欲しかったが、クラリスも身体中が痛んでいたため、何も言わずに受けた。そして口を開く。
「ご無事で、じゃないです! 心配……心配、したんですよ! 三日も!」
「僕もですよ。全面戦争への判断が早くて驚きました。それより奥様、この毒、面白いんです。帝国側は解毒の処方を持ってるんですよ。彼らの薬草とうちの回復薬を合わせると——ほら、引いていく」
黒ずんでいた傷口の縁が、みるみる赤みを取り戻していく。兵が、長く息を吐いた。ルークはパンを一口齧って、次の怪我人へ移りながら、話を続けた。
「こっちは皆さんから離れてからすぐに計画が狂いまして。砦に近づいた夜、獣が溢れてるのが見えて。予定が全部飛びました。すぐに引き返そうとも思ったんですが、ワイバーンが上を回りはじめまして。高原の縁までは遮るもののない平野でしょう。十人で戻れば、月のない夜でも上から丸見えです。……進むも戻るも危ないなら、隠れて好機を待つほうがましだと。それで、砦の近くの貯水池に潜んでたんです。……乾いた貯水池の底って、意外と隠れられるんですよ。夜は冷えましたけど」
「それで……どうやって、中に」
「南から皆さんが攻めてきたでしょう。ああ、全面戦争にしたんだなと。砦じゅうが上を下への大騒ぎになったので、その隙に伝令の兵を捕まえて、身ぐるみを頂きました。それを着て、堂々と門から」
ルークは、広間の入口のほうへ、ちらりと目をやった。セラフィンの後ろにいつも影のようについている、若い聖騎士が立っていた。
「……あの聖騎士サマたち、暗殺者みたいな動きをするんですよ。音もなく背後に立って、声も出させない。びっくりしましたね、あれは。味方でよかったです。ああ、殺してはないですよ、これから共闘を依頼する先でしたからね。」
「それで、騎士団長との交渉は……」
「ああ、それは楽でした」
ルークは軟膏の蓋を閉めて、少し笑った。
「陛下の、最も得意な領域だったといいますか……」
それきり、言葉を濁して、次の患者の包帯を解きはじめた。クラリスは最も得意な領域とは何なのかとジルヴェスターのことが気になり口を開けかけたが、その時別の方から声が聞こえる。
「奥様!」
声のほうを向くと、ディートリヒが広間の入口から駆けてきた。黒い髪が汗で顔に張りつき、頬が少しこけている。やつれていたが、目だけは明るかった。
「ご無事で……! いや、今回もご活躍とのことで。先ほど陛下と話しましたが、今後護衛は私にやらせてください。奥様は危険を知らなすぎます。」
最初からの説教モードにクラリスは顔が引き攣る。だが、計画も無しに飛び込んだこともあり、何事もないかのように笑顔をつくる。
「ディートリヒも、無事で……本当に」
「陛下がいましたから」
彼はそれだけ言って、それが全ての説明であるかのように笑い、ルークとクラリスに向き直った。
「侯爵側が、千人分の食糧を出してくれるそうです。貯蔵庫を開けると。……手当の終わった負傷者と奥様がたは砦の中の部屋へ、兵は中庭と東棟に分けて休ませます。ひとまず、皆、休みましょう。明日には東の戦線から、リアンツァとうちの騎士たちも戻ってくるはずです」
千人分の食糧。昨日までの敵の、貯蔵庫から。
クラリスは、広間を見渡した。帝国の医者が、アルダーンの兵の額の汗を拭いていた。窓の外がうっすらと白みはじめていて、誰かが、篝火をひとつずつ消して回っていた。
戦が、終わったのだ。少なくとも、今夜の分は。
そう思った途端、張り詰めていたものが緩んで、膝から力が抜けた。魔石を握りっぱなしだった左手が、開かなくなっていた。指を一本ずつ剥がすようにして開くと、掌に、石の形が赤く残っていた。
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