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砦の戦い

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真夜中に、千人の軍が平野へ降りていく。


馬は引いて歩かせ、蹄には布を巻き、誰も口をきかない。月はなく、高原の縁から平野へ落ちる斜面を、黒い列がゆっくりと流れていく。

クラリスはニクラスに手を引かれて、その列の真ん中を歩いた。足元は見えない。前を行く兵の背中だけを見て、石に躓くたびにニクラスが支える。魔石はローブのポケットに。


平野に降りて、風向きが変わった瞬間、獣の匂いが漂う。

むっとする匂いが夜気に乗って、顔にまとわりつくようだ。


緊張なのか恐怖なのか、風は肌を切るような冷たさだが、身体は寒さとは違う震え方をし熱かった。


大きな黒い柵は、もうすぐそこだ。その後ろには黒い壁が夜空を塞いでいる。



低い唸り声が、地面を通して膝に伝わってくる。何百という爪が、土を掻いているようだ。

見えなくても大量の魔物がいることを肌で感じる。


背中を、汗が伝った。襟巻きの内側で、首筋が冷たい。


けれど——あの壁の中のどこかに、ジルがいるかもしれない。


そう思うと、怖さより、急く気持ちのほうが勝つ。早く。早く、魔獣を倒して、あの黒壁の中を安全にしないと。



セラフィンが、こちらを見る。


暗がりの中で、目で合図を送る。クラリスは頷いて、膝をつく。土は冷たく、乾いていて、指の間でさらさらと崩れた。魔石を左手に握り、右手を、地面に置き、目を閉じた。


式を、丁寧に展開する。頭の中で組んだ式を、そのまま土へ流す。急いてはいけない。土の節、固める節、高さの節、そして八の字に絞る角度。ひとつずつ。ひとつでも間違えれば、壁は歪んで立つ。左手の魔石が、じわりと熱くなった。額に、汗が滲む。マナが、指先から土へ、吸い込まれるように流れていく。


——ごごご、と。


地の底から、音がすると共に、地面が揺れる。


真っ暗な暗闇で、よく確認はできないが、目の前の闇が、盛り上がっていく。赤茶けた大地が、両側から壁になってせり上がる。土が裂けて、砂がこぼれ落ちる音が続く。


耳の奥で、自分の心臓が鳴っていた。


セラフィンやラウレンツはこの暗闇でも見えるらしい。二人はさっと合図をする。



ラウレンツが、片手を上げた。


セラフィンが低く大きな声で叫ぶ。

「全員攻撃!」


一斉に、弓が鳴った。何百という矢が闇の中を、柵の向こうへ飛ぶ。


同時に、獣のけたたましい鳴き声が広がる。


すると、砦の壁の上で、篝火が慌ただしく動き、角笛が鳴った。


しばらくすると、柵が軋む。木が裂ける音。倒れる音。そして——地面が、太鼓のように鳴りはじめた。


黒いものが、こちらへ向かって走り出した。


ワーグだった。北の森で見たものより、一回り大きい。狼に似た体に、長すぎる牙と、燃えるような目。それが、少なくとも三百。篝火の光を目に映して、土を蹴散らして、波のように押し寄せてくる。土の匂いに、獣の熱い息の匂いが混ざった。


「奥様、下がって!」


ニクラスに腕を掴まれ、引き倒されるように岩陰へ連れていかれた。膝を岩で強く打ったが、痛みは不思議と感じない。


そして、獣の波は、土の壁の広い口に、まっすぐ呑み込まれた。


壁の間で、押し合い、噛み合い、狭まる道の中を、後ろから押されて進む。土壁に体を擦りつける音、牙と牙がぶつかる音。細い出口から、数頭が吐き出される。

構えていた騎士たちは剣を光らせどんどん斬り倒し、出口の前に、死骸が積み上がる。


壁が、機能していた。


クラリスは、岩の縁を握りしめたまま、それを見ていた。指が白くなっていた。



けれど、ほっとしたのも束の間だった。


上から、押しつけるような風。帆が風を孕むような、大きな翼の音。見上げると、夜空を、黒い翼が横切っていく。一、二、……五。ワイバーンだった。


「聖騎士、魔法使いはシールドを張れ!」


セラフィンの声が飛んだ。聖騎士たちが一斉に手を上げ、白い光の膜が兵の頭上に張られる。ワイバーンが、その上から、岩を落とした。膜に当たって、光が弾ける。岩が砕けて、砂が雨のように降ってくる。次の岩。また弾ける。


シールドが張られてると分かっても、恐怖心を煽られる。


さらに、土の壁の上に、岩が落ちる。そこまではシールドが張られてなかったのだ。


何度も岩が落とされ、壁が壊れていく。



ごう、と音を立てて、土が崩れて滝のように流れ落ち、その土煙の中から、押し込められていたワーグが溢れ出す。そして、槍衾の脇へ回り込んで、兵の列の横腹に、飛びかかった。


盾が弾き飛ばされれ、悲鳴があがる。馬が、後ろ脚で立ち上がって嘶いて、そのまま横倒しになる。


クラリスは、岩陰から、それを見ていた。


胃の底から、熱いものが込み上げた。口を押さえて、堪える。口の中に、酸っぱいものが上がってきて、無理やり飲み下した。手が冷たくなって震えていた。


だが、それを堪えたまま、視線を、砦へ向けた。


ポケットの中の魔石を、指で探った。ある。まだ、温かい。

手の中で魔石を転がし気持ちを落ち着かせる。




ニクラスを見る。彼は剣を抜いて、溢れた獣の一頭に向かっていた。もうこちらを見ていない。


クラリスは、そっと、岩陰から、後ろへ抜けた。

魔人なのかわからないが、魔獣を操るものを誘き寄せ、一刻も早くこの戦いを終わらせないと。


ラウレンツに話すか迷ったが、きっと砦の近くに行くことは反対されるはずだと思い、言わなかった。


とにかく、1秒でも早く、ジルを助け出したい。そんな想いだった。


平野の脇に、小さな雑木林がある。痩せた木と、背の低い茂み。その中に身を入れて、身を屈めたまま、少しずつ、砦のほうへ進む。枝が髪を引っ掻き、茨がローブを裂いて、脛に細い痛みが走る。自分の呼吸の音が、やけに大きく聞こえた。


木の間から、少し離れたところに主戦場が見える。


マンティコアが、暴れている。獅子の体に、人の顔。その顔が、笑っていて、クラリスは顔を歪める。蠍の尾が振られるたびに、兵が、まるで藁人形のように宙へ飛ばされていく。

聖騎士が光を宿した矢を放っているのが見えたが、獣は止まらない。矢が刺さったまま、次の兵を尾で薙いだ。


クラリスは、震える手を押さえるようにチュニックを握る。


砦の壁がすぐそこというところで、その両手を、土に置く。


——魔獣が見えなければ、命令できない。


式を、展開する。壁のときとは、逆だ。固める節を、外す。土の表面を、軽くする。粒を、細かく、細かく。目の前の土が、色を失って、粉になっていく。指の下で、地面が、小麦粉のように柔らかくなった。そこにいちばん簡単な風の式。軽い突風を起こす。


ふわり、と。


粉が、舞い上がった。


一度舞い上がった粉は、風に乗って、砦の側から、戦場の上へ、ゆっくりと広がっていく。ヴェールのように。


土煙が、こちらまで流れてきて、クラリスの口の中がざらつく。


クラリスは、涙の滲む目で、様子を見た。

もう砦の見張り台や上の方ははよく見えない。


すると、土煙の向こうで、ワイバーンの影が、ふらついた。岩を落とすのをやめて、何からか逃げるように上へ、上へと羽ばたく。一体が、別の一体にぶつかって、金切り声を上げた。もう一体が、意味もなく旋回して、壁に翼を打ちつけた。地上の獣の唸り声が、ばらばらになった。


——効いている。



砦の壁を、じっと見た。


きっとくるはずだ。魔獣の様子が見える場所へ。

クラリスは息を潜める。心臓の音だけがうるさい。




そこに——人影が、現れた。


黒いローブを、頭から被って、黒壁の上になっている。何かを、探すように。土煙の中を、見下ろしている。


——いた。


クラリスは、思った。


魔人がきた。



だが、そこでクラリスは躊躇う。


どうしよう、自分に、攻撃の魔法はない。あるのは、火を出す式と、土と、水と。あんな高いところにいる人に、届くものは、何も。手が、また震えた。震えを止めようと、ポケットの魔石を、もう一度、握った。強く。爪が、掌に食い込んだ。躊躇っている暇はなかった。早く。早く、ジルを——


茂みから飛び出そうとした、そのとき——


肩を、掴まれた。


強い力だった。振り払えないと、掴まれた瞬間に分かる力。


「ここに、隠れていてください」


低い声だった。


振り返ると、白いローブが立っていた。土煙に汚れて、灰色になった白。銀の髪が、乱れて額に張りついている。ローブの裾から、血の匂いがした。獣のものか、人のものか、分からなかった。その目は、こちらを見ていなかった。壁の上の、黒い影を見ていた。


聖女とは、かけ離れた顔だった。慈悲も、祈りも、そこにはない。獲物を見つけた、ただ無慈悲な、聖騎士がそこにいた。






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