帝国の砦3
「魔獣が、確認された」
セラフィンは地図の南壁のあたりに指を置いたまま、顔を上げなかった。蝋燭の火が、その伏せた睫毛の影を頬に落としている。
「少なくとも、数百。……昨夜まで、砦付近に魔獣は確認されなかった。おそらく、東側に多くの兵を出してそれを補完するために出したのだろう。砦に魔獣の飼育場のようなものが隠されていたのかもしれない」
魔獣の飼育場と聞いて、ゴブリンやガルムなどの魔獣が飼われているところを想像し、クラリスは身震いをする。
「しかし、それだけの魔獣が帝国直属の兵力としてあるとなると」
ラウレンツが、髭を撫でていた手を止めて口を開く。
「話が、違ってきますな」
「ああ」
セラフィンが、ようやく顔を上げた。その整った顔からはいつもの通り感情は読み取れない。
「もし砦にうまく入り込めて、侯爵の騎士団長と話がつけられたとしても——あの魔獣は帝国のものだ。侯爵の兵ではない。つまり、騎士団長のほうも、帝国直属の兵である魔獣に囲まれていることになる。……裏切りたくても、裏切れない」
裏切れないということは、つまり、ジルヴェスターの交渉はうまくいかないということだ。
クラリスは勢いよく立ち上がり、椅子が倒れる。膝が卓の脚にぶつかって、蝋燭の火が揺れる。
「じゃあ、早く、ジルヴェスターたちに知らせに行かないと」
「奥様」
ラウレンツが、静かに言った。立ち上がり、クラリスの椅子を起こす。
「陛下たちも、いまどこにおられるか分かりません。平野のどこかに、身を潜めているかもしれません。……あの方々は、むやみに捕まるようなことはなさいません。砦に近づけば、魔獣の気配には気づかれるはずです。そうすれば、こちらに戻ってくるかもしれません。」
「かもしれないって……」
クラリスは、立ったまま、ラウレンツの顔を見た。慰めているのか、それとも本気でいっているのか判断がつかない。
卓の向こうのセラフィンを見る。
セラフィンは異様に落ち着いている。
その様子をみて、まさか——ジルヴェスターを、見捨てる気なのではないかという考えが頭をよぎる。作戦が崩れたのなら、無理をせず、十人を切り捨てて、千人を温存する。この合理の人なら、そう考えても不思議ではない。そう思った瞬間、喉の奥が熱くなった。
「全面戦争しか、ないだろう」
その考えを断ち切るように、セラフィンが言った。
「いずれにせよ砦の兵力は、いま大半が東に出ている。こちらから奇襲をかけて力ずくで砦を奪うしかない。」
指が、地図の上を、砦から高原の縁へと、ゆっくり辿る。
クラリスは、息を呑んだ。彼はジルヴェスターたちを見捨てるわけではないらしい。
「だが」
セラフィンの声が、一段低くなった。
「その前に、獣がどれだけいるのかを探る必要がある。見えているのは、柵の中の分だけだ。……それを探ってからだ。」
それきり、彼は口を閉じ、クラリスは足をふらつかせながら、天幕をでた。
待つしか、なかった。
それから、丸二日が過ぎていた。天幕に入り、出て、崖の縁へ行き、戻り、また出る。
東の地平では、昼も夜も遠く煙が上がり続けている。リアンツァの攻めは続いているのだ。砦の壁の上は相変わらず慌ただしく、南門のほうは——ここからでは、よく見えない。
聖騎士たちは、夕方になると、崖の縁を馬で闇に隠れるように東へ進み砦に近づき偵察し、朝方になると帰ってきた。
——ジルたちは、食糧を数日分しか持っていっていない。
崖の縁に立つたび、そのことばかり考えた。あの夜、鞍に括りつけた小さな袋。干し肉とパンと、水袋がひとつ。五日で落とす作戦だったからそれでよかったが、すでに五日目だ。砦は魔獣に囲われている。平野のどこかで動けずにいるとしたら…倒れてしまわないだろうか。胃の底が重くなる。
後ろから、足音がついてくる。
ニクラスだった。天幕へ行けばついてきて、崖へ行けばついてくる。心配そうな顔で、けれど何も言わずに、三歩後ろを歩いている。
ラウレンツからクラリスが勝手なことをしないようにと言われているのだろう。分かっていたから、クラリスは振り返らなかった。振り返れば、彼に八つ当たりをしてしまいそうだ。
三日目の昼、クラリスは、岩場に腰を下ろしているセラフィンを見つけた。
一人だった。膝に肘をつき、砦のほうを見たまま、考え込むように動かない。
その姿が呑気に思え、クラリスは沸々と怒りが湧いてくる。
気づけば、大股で近づいていた。ニクラスが慌てて何か言ったが、聞こえなかった。
「いい加減に、しませんか」
セラフィンが、顔を上げる。
「もう、三日です。ぼうっと砦を見ていても、何も分からないんですよ? ジルたちは食糧を数日分しか持っていない。あの人たちは、戻ってきていない。……いつまで、様子を見るんですか」
自分でも、声が震えているのが分かった。怒りなのか、怖さなのか、分からなかった。
セラフィンは、答えなかったが、こちらをじっと見返す。
責めるでもなく、宥めるでもなく、駄々をこねる子供を見るような——いや、それすら何か違う。何か違う生物を見ているようなそんな目だった。
そこへ、聖騎士のひとりが駆けてきた。
整った顔に汗を浮かべ、ローブの裾を掴んで走ってくる。セラフィンの脇に膝をつくと、その耳元へ、低く早口で何かを告げた。クラリスには聞き取れなかった。
セラフィンの目が、わずかに動いた。
彼は立ちあがり、ローブの砂を払いもせず、クラリスを見もせずに——その向こうに立っているラウレンツのところに向かう。
「ラウレンツ殿。もう一度、軍議を開く」
それだけ言って、天幕のほうへ歩き出した。
クラリスは、その背中を見ていた。何が分かったのか。何を見つけたのか。訊きたかったが、追いつく前に、白いローブは天幕の中へ消えていた。
クラリスも慌てて天幕に入った。




