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帝国の砦2

数日後の朝、砦が、にわかに騒がしくなった。


崖の縁に伏せていた見張りが、司令部に急ぎ走る。クラリスも這っていって、岩の陰から覗く。遠い黒い壁の上で、豆粒の兵たちが、一斉に同じ方向へ走っている。門が開き、隊列がぞろぞろと吐き出されて、東へ——リアンツァの国境のほうへ、小さく、小さく、流れていく。砦の上の旗が、慌ただしく振られていた。


「……来ましたね」


隣に来たルークが、目を細めて東の地平を見ていた。


「リアンツァとアルダーンの軍でしょう。ただ、彼らも本気の戦はしません。あくまでゲリラ戦を装って、敵をなるべく誘き寄せるはずです。」


砦から溢れ出る大量の兵士たちを見て、背筋が冷たくなる。


作戦が、動いている。東で始まったということは——今夜にはこちらも動くということだ。


気づけば、ルークのローブの袖を掴んでいた。


「ルーク……あなたも、行くんですよね」


「はい。今夜」


クラリスはアルダーンについてから、右も左も分からなかったクラリスに分け隔てもなく接してくれたこの魔法師との関係を思い出す。


太々しく、図太く、人を常に見下す姿勢はどうかと思ったが、ルークのおかげで前に進めてきた。そう思うと、自然と口が開いた。


「ルーク……いままで、本当に、ありがとうございました」


言った瞬間、目の縁が熱くなった。堪えようとしたのに、声が震えて、視界が滲む。



「は?」


だが、ルークは、ぎょっとしたような、心底嫌そうな顔をする。


「何で最後の別れみたいになってるんですか。勝手に殺さないでください。本当。やめてくださいよ、縁起でもない」


「だ、だって」


「奥様。この作戦、僕らは何日も練りに練ったんです。行き当たりばったりで砦に入るわけじゃない。……大丈夫ですよ」


いつもの気だるげな声だった。それが、いつも通りすぎて、余計に怖かった。ルークは袖を掴んだ手を、そっと外して、それから少し考えて、ぽんぽん、と頭を叩いた。


「戻ってきたら、バリアの式、見せてくださいね。約束ですよ」


そう言って、ルークは準備がありますからとひらひらと手を振り返り天幕に戻っていく。




クラリスは小さくため息をつき、悴んだ手をこする。そしてきょろきょろとジルヴェスターを探すと、谷筋の馬繋ぎ場にいた。


馬の脚を確かめている。鞍の革紐を締め直し、蹄を持ち上げて、ひとつずつ検分している。いつも通りの手つきで、いつも通りの背中だった。それを見た途端、堪えていたものが、こぼれた。


「ジル……」


呼んだ声で、彼が振り返った。


泣いてはいけない。信じなければいけない。この人ならうまくやる、と。分かっているのに、頬を伝うものが止まらなかった。ジルヴェスターは手綱を放して、何も言わずに、両腕でクラリスを抱きしめた。


「……しばらく、離れる」


頭の上で、低い声がした。


「無理はするな。何があっても、後方にいろ。ラウレンツから離れるな」


クラリスは、彼の胸に顔を押しつけたまま、思った。


——どうして。


どうして、あなたばかりが危ないところへ行くのに。あなたのほうが、よほど無理をしているのに。わたしにだけ、無理をするなと言うの。


言いたかった。けれど、言えなかった。この人がいま、何を思ってその言葉を言っているのか、分かってしまうから。自分が危ないところへ行くからこそ、わたしには安全でいてほしい。それだけを、願っている。


「……はい」


濡れた声で、頷いた。


「ジルも……気をつけて、くださいね」


「ああ」


「待ってますから」


「ああ」


抱きしめる腕に、一度だけ、強く力がこもった。






その夜、十人の騎士が、暗闇に紛れて消えていった。


ジルヴェスター。ルーク。ディートリヒ。聖騎士が三人。全員が黒い外套で身を包み、馬には布を巻いて蹄の音を殺し、月のない崖の斜面を、一列になって降りていった。


あの砦まで、おそらく半日。着いたら身を潜め、次の夜が来るのを待って、点検隊の装束で門へ向かうと言っていた。うまく行けば砦を落とすまで五日程度のはずだ。数日分の食糧と水を抱えていた。


クラリスは、岩陰から、それを見ていた。


黒い影が斜面を下り、平野の暗がりに溶けて、やがて見分けがつかなくなる。見えなくなっても、しばらくは同じ場所を見ていた。冬の風が、頬の涙の跡を、冷たく乾かしていった。






その日から、クラリスは落ち着かなかった。


すでにジルヴェスターたちが出てから三日は経っていた。特に砦に変化は見られない。



クラリスは天幕に入り、出て、崖の縁へ行き、戻り、また出る。板を手に取っても彫れず、帳面を開いても一文字も書けない。東の地平では、昼も夜も、遠く煙が上がっていた。リアンツァの攻めが続いているのだ。砦の壁の上は、相変わらず慌ただしい。南門のほうは——ここからでは、見えない。


「奥様……」


何度目かに崖の縁から戻ってきたとき、ラウレンツが声をかけてきた。心配そうな顔だった。


「少しは、お座りになっては」


「……ラウレンツは、どうして、そんなに落ち着いていられるんですか」


思わず、そう訊いてしまった。ラウレンツは少し笑って、髭を撫でた。


「陛下ですから。あの方は、ただものではございません。……あの方が戻らなかったことは、一度もない」


そう言いながら、その目が、東の地平から離れていないことに、クラリスは気づく。






そのとき——


司令官の天幕の脇で、セラフィンと聖騎士たちが、輪になって何かを話していた。


若い聖騎士が低く早口に何かを告げ、セラフィンが東の空を見て、それから南を見て、短く問い返す。表情は変わらない。けれど、その周りの空気が、はっきりと重かった。


ラウレンツも、それをじっと見ていた。髭を撫でる手が、止まっている。


「……何か、あったのでしょうか」


「分かりません。ですが、あまりいい雰囲気ではありませんね」


言い終わらないうちに、聖騎士のひとりがこちらへ歩いてきて、ラウレンツに短く告げた。軍議を開く、と。


ラウレンツが天幕へ向かう。クラリスは、その後ろを、無理やりについていった。垂れ布をくぐるとき、ラウレンツがぎょっとした顔で振り返ったが、何も言わなかった。




天幕の中で、セラフィンが地図の前に立っていた。


こちらを見た。一瞬、その目がクラリスの上で止まったが、特に追い出されることはなかった。彼はそのまま、地図の一点を指で押さえて、口を開いた。




低い声だった。


「遠目だが——魔獣が、確認された」

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