帝国の砦
千人の軍は、岩陰に伏せていた。
高原の北の縁、帝国側から見上げても影にしか見えない岩場の窪地に、天幕を低く張り、火は炊事の分だけに絞り、馬は谷筋に繋いで、旗は巻いたまま。そうして、もう幾日も過ごしていた。
崖の縁まで這っていけば、遠く東側に砦が見える。黒い石を積み上げた巨大な塊が平野の入口に蹲り、その壁の上を豆粒ほどの兵が絶え間なく行き来している。夜になれば数えきれない篝火が灯り、その明かりが低い雲を赤く染めた。
騎士や兵士は、砦をみて恐怖で震えているようにも見えたし、闘志を燃やしているようにも見えた。
だが、多くは北西の砦での戦で仲間を失ったり、怪我をした者たちだ。脱走兵のようなものは発生するようには見えない。
クラリスは、忙しくしていた。
水場の板は使い終えたものから順に彫り跡を確かめて欠けた節を彫り直し、魔石は一つずつ光に透かして残りの力を帳面に書き留め、ルークの薬箱を覗いては回復薬と傷薬の残りを数えて足りない分を一緒に煮た。バリアの板は、五枚とも柄尻に合う大きさに削り直した。
手を動かしているあいだは、あの黒い壁のことを考えずに済む。あそこにジルヴェスターが攻め込むと言ったら…きっと先陣を切るはずだ。どう反応していいか分からない。
そもそも、あの砦をどう落とすのか、クラリスにはさっぱり見当もつかなかった。
壁は高く、厚く、兵は多い。こちらは千人で、高原を渡ってきたばかりで、攻城の道具のひとつも持っていない。考えれば考えるほど、想像のほうが先に力尽きて、そのたびに胸の奥がひやりとした。
分かっていたことのはずだ。戦なのだから。
それでも、あの黒い壁を見ると、帝国と戦をすることがとても無謀な挑戦に思える。
怖さなのか、何なのか目頭が熱くなり、袖で慌てて拭う。
司令官の天幕では、毎日、軍議が開かれていた。クラリスは呼ばれなかったし、正直怖くて行けなかった。
どんな戦略を言われようと、それはジルヴェスターが危険なところに行くことは確実だったし、それを聞く勇気が無かったのだ。
だが、願いは叶わず、その日の午後、ニクラスが天幕まで呼びに来た。
「奥様。陛下が、軍議の天幕へ、と」
心臓が、ひとつ跳ねた。呼ばれた。何かが決まったのだ。
兵士や騎士が溜まっている天幕の横をとおり、軍議が行われている端の天幕は向かう。
低く張られた天幕の垂れ布をくぐると、中は思ったより人が多かった。セラフィンと、聖騎士が数人。ルーク。ラウレンツ。皆が地図を広げた卓を囲んで立っていて、蝋燭の明かりがそれぞれの顔の下半分を照らしている。
ジルヴェスターが顔を上げて、クラリスを見た。
微笑んだ。いつもの微笑みだった。けれど、その目の奥が少しだけ暗い。
クラリスはそれを見た瞬間、天幕に入る前の小さな期待——もしかしたら、戦をやめようという結論への期待が、すっと冷えていくのを感じた。
セラフィンは椅子に座ったまま、物思いに沈むように地図を見下ろしていて、こちらを一瞥もしなかった。ラウレンツはいつもの豪快な顔ではなく、眉間に薄く皺を寄せていて、その茶色の目にもはっきりと心配の色が浮かんでいる。
「クラリス。座ってくれ」
ジルヴェスターが卓の脇の椅子を引いた。
「これからの戦略を、きみにも話しておく。……知らないままでは、置いておきたくない」
置いておく?クラリスは頭で反芻しながら、椅子に腰を下ろして、膝の上で手を組む。指先が、もう冷たかった。
「まず、東だ」
彼の指が地図の上を滑って、砦の東側——リアンツァとの国境の線を辿った。
「数日後の夜明け、リアンツァの軍が東からあの砦を攻める。率いるのはチェーザレだ。北西の砦に残しておいた我が軍の一部も、リアンツァ領を通って合流している。」
クラリスは、地図を見つめた。
数日後。
北西の砦にいた時に、彼らがリアンツァと連絡していたことや、ここまでの行軍に期限があったことの理由が、いま一つに繋がる。
セラフィンと谷に落ちたときも時間がないと言われ休めもしなかったのは、彼の性格が悪いわけではなくて理由があったのかと思い至る。
「東から、リアンツァとアルダーンが攻め込むが、帝国はそれを見て、予想どおり我々はリアンツァ経由で攻めてきたと思うだろう。砦の兵は、全力を東の壁へ向けることになる。…実際には囮なのだが」
指が、地図の上をゆっくりと、砦の南側へ——高原に面した、こちら側へ回った。
「その隙に、南から、砦に忍び込む」
忍び込む?…どうやって?誰が?
クラリスはジルヴェスターを見るが、彼は地図に目線を向けたままだ。
「補給隊か、点検隊に紛れることになるだろう。あの砦は、涸れた水場の原因を調べに幾度か高原へ人を出している。その帰りに紛れて門をくぐる。……門が使えなければ、ルークの土魔法で地下を掘り返すことになるが。砦の下には水路が通っているはずだ。そこから、司令官の部屋へ向かう」
誰がそんな危険なことをするのかという想いに囚われ、頭になかなか入ってこない。
するとそれを見越したようにセラフィンが椅子にもたれながら、クラリスをじっとみて口を開く。
「あの砦の司令は、帝国ラリア侯爵の騎士団長だ。侯爵の家の者で、侯爵の徴集兵が砦の守りの大半を占めている。……帝国直属の兵は三割にも満たない」
「その騎士団長と、交渉し、短時間で砦をおとす。」
——誰が。
訊くまでもなかった。あの暗い目が、もう答えている。訊かなくても分かっているのに、口は勝手に動いた。
「……誰がいくんですか?」
「僕と、ルーク、ディートリヒ。それに——聖騎士から、三名」
セラフィンの背後で、聖騎士のうち三人が、わずかに頭を下げた。いつもセラフィンの後ろにいる若い聖騎士も混ざっていた。
クラリスは、目の前が、一瞬、白くなった。
ジルが、行く。あの黒い砦の中へ。
「……そんなに、簡単に、落ちるなんですか」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「あんなに大きな砦が。数人で、中に入って、話をして——」
「簡単ではございません」
答えたのは、ラウレンツだった。
「ですが、勝算はございます。……奥様。北西の砦の戦で捕らえた帝国兵を、覚えておいでですかな」
「え……ええ。捕虜の方々を」
「あのうち、領主の徴集兵だった者たちを、聖国に我々が向かうころに、密かに帰しました。リアンツァの国境を通して、それぞれの故郷へ。」
クラリスは、ラウレンツの顔を見た。それから、ジルヴェスターの顔を。
そんな前からずっと、いかにこの砦を落とすか考えていたらしい。
「『アルダーンは、あなた方の息子を殺さなかった。帝国は、二千の兵を高原に捨てた』——と。あの砦の徴集兵は、ほとんどがラリア侯爵の土地の者です。捕虜たちの情報によれば、侯爵は、とうに帝国に愛想を尽かしているようなので。……帝国を裏切る可能性は十分にあります。」
ラウレンツは、さらにクラリスを安心させるように笑顔をつくる。
「それに交渉の上手さで言えば、陛下の右に出る者はおりませんからな」
「もし、もし、その交渉がうまく行かなかったらどうなるんですか?」
クラリスは慎重に口を開く。
すると、セラフィンが立ち上がり地図を指す。
「時間になっても砦が落ちなければ、こちらから攻め込みます。」
「だったら、そんな数人で危ないことをしなくても、最初から攻め込めばいいじゃないですか。」
クラリスは戦略のことはよく分からなかったが納得できず、思わず声を荒げる。
「クラリス、この砦を落とすのは最終目的ではない。このあと帝都に攻め込むにあたり、こちらの兵士は温存したい。それに、侯爵側の兵がつけば、戦力としてはかなり大きくなる。」
ジルヴェスターは暗い瞳のままクラリスを見つめる。
天幕の中が静かになって、蝋燭の芯が小さく音を立てた。
クラリスは、地図の上の小さな砦の印を見ていた。見ているうちに、印が滲んだ。慌てて瞬きをして、滲みを消す。泣くところではない。泣いたら、この人たちに「やはり連れてくるべきではなかった」と思わせるだけだ。
「……クラリス」
ジルヴェスターが、静かに呼んだ。
「僕たちは大丈夫だから。必ず戻る。」
クラリスは立ったまま動けなかった。
「リアンツァが攻め込むまで、まだ数日あるだろう。それまでに、きみは休め」
休め、と言われて、休めるはずがなかった。
天幕を出ると、冬の風が崖の縁を吹き抜けていった。遠く、黒い砦の壁の上に、篝火がひとつ、またひとつと灯りはじめている。あの明かりのどれかの下に、数日後、あの人がいる。そのとき、わたしはここで、あの明かりを数えているだけだ。
襟巻きの中で、唇を噛んだ。
——隣にいたい、と言ったのは、わたしだ。
隣にいるというのは、こういうことも含むのだと、今日、初めて知った。




