遠征5
谷から戻って、行軍は再開された。
ひとつだけ、変わったことがある。隊列の先頭が、ジルヴェスターではなくなった。
先頭には、セラフィンと——ラウレンツ。あの豪快な砦の主が、聖騎士と馬を並べて、何やら身振り手振りで話しかけている。セラフィンは相変わらず前を向いたきりだが、時折、短く何か答えているようだった。
そしてジルヴェスターは、隊列の中ほどにいた。
荷駄の列のすぐ前。振り返れば、必ずクラリスが目に入る位置だ。アルダーンの司令塔がそこでいいのか気になったが、それをジルヴェスターにいうと、あいつと話すことはもうないとだけ言った。鞍の上で顔を上げるたび、金の髪がそこにあり、クラリスはそれだけで身体は熱くなった。
だが、心の暖かさとは関係なく、空気の冷たさは日に日に厳しくなっていく。
行軍は、終盤に入っていた。
高原の風景は変わらないが、温度は日々下がっていくのを感じる。赤茶けた大地、亀の甲のひび割れ、乾いた風。風邪は肌を刺すようで、砂と混じるとそれだけで肌が切れているように感じる。
そして、クラリスの体も限界に達しようとしていた。
毎晩の水作りが、じわじわと芯を削ってた。板を沈め、堰を打ち、脈を読む——手順は体に入っているのに、マナを通すたび、指先から冷たいものが這い上がってくる。朝、板を回収する手が、震えるようになった。
帝国軍の水場の予想位置はずれていることも多く、神経を尖らせて水脈を読む必要があったのだ。特に、アルダーン北西の砦の戦力を減らすと聞いてからは、帝国の水場を潰すという責任の重さも感じていた。
それに、とクラリスは思う。この行軍は高原を抜けてからが本番であり、魔石の魔力はできる限り残したい。そう思うと、毎日出来上がった式を展開するのではなく、相当の式の微調整を加えていた。
その日も、日暮れに、水を湧かせた。
いつも通り、湧き口の水柱をまともに浴びる。もう避ける気力もなかった。膝まで泉に浸かったまま、ぼんやりと水面が広がるのを見て、それから、よたよたと縁を登る。
普段なら、そのあと兵が桶に汲んできてくれた水で、天幕の中で体を拭く。今夜は、それすら億劫だった。濡れた騎士服を脱ぎ捨て、乾いた寝間着に袖を通して、そのまま毛布の上に倒れ込み、布団にくるまった。目を閉じた瞬間に、意識が切れた。
——ふと、目が覚めた。
天幕の中は、燭台がひとつだけ灯っていた。足の裏に、温かいものが触れている。
ジルヴェスターだった。
クラリスの足元に膝をついて、布を絞り、クラリスの足を拭いていた。丁寧に、足の指の間まで。そばに置かれた桶から、湯気が立っている。ぬるま湯だった。
「……ジル……?」
「起きたか」
彼は手を止めなかった。片方の足を拭き終えて、もう片方に移る。
「その、お湯——」
「ルークに温めさせた。……泥だらけだったぞ、足も、手も」
言われて、自分の手を見る。土の色が、爪の間に残っている。それすら気づかずに寝ていたのだ。
「す、すみません、わたし、自分で」
「いい。横になっていろ。疲れているだろう」
起き上がろうとした肩を、大きな手が押し戻した。逆らえなかった。逆らう力が、体のどこにも残っていなかった。まぶたが、もう重い。
足を拭き終えると、彼は今度はクラリスの手を取って、指の一本一本を、同じように拭いていった。ぬるま湯を含んだ布が、指の間の土を溶かしていく。その温かさに、また意識が遠のきかけた。
「……クラリス。横になったままでもいいが、少しだけ、起きれるか?」
「んん……」
「腹に入れたほうがいい。今日は、夕餉も食べていないだろう」
彼が寝台の脇から取り上げたのは、パンと、干し肉と、革袋の葡萄酒だった。上体を起こされ、背中に毛布を当てられて、パンを小さく裂いたものを口元へ運ばれる。抗議する余力もなく、素直に口を開けた。
「それから、これも」
小瓶が差し出された。ルークの、あの苦い回復薬だった。
クラリスは、瓶を見て、少し迷った。この薬は貴重だ。数に限りがある。怪我人が出たときのために——
「……飲め」
ジルヴェスターの声は、静かだった。
「きみがマナを切らせば、明日の水がない。きみが倒れれば、この軍は帝国に着かない。……それに、僕ももう、君をこれ以上苦しめることに耐えられない」
足手まといにだけは、なりたくないとずっと思っていたが、この眼差しはさらに堪える。クラリスは瓶を受け取って、一息に飲みほす。喉が焼ける。そして、体の底に、じわりと火が戻ってくる。
「……いい子だ」
ジルヴェスターの目に安堵が浮かぶ。額に唇を寄せた。
それから、唇に。
短い口づけだった。けれど、離れかけた唇が、もう一度、深く重なった。ぬるま湯で温まった手が、頬から、首筋へ、するりと降りて——そこで、止まった。
ジルヴェスターは、ゆっくりと体を離した。
目を閉じて、一度、深く息を吐く。何かを我慢する顔だった。
「周りの騎士に、声を聞かせるわけにはいかない」
低い声でそう言って、彼は立ち上がった。燭台の火が、金の髪を揺らす。
「パンと葡萄酒を腹に入れたら、寝なさい。……明日も早い」
天幕の布が、静かに閉じた。
クラリスは、パンを齧りながら、燭台の火を見ていた。
——一緒に来て、よかった。
こんなに疲れて、こんなに濡れて、毎晩マナを削って、それでも。あの人の隣にいられて、あの人の役に立てて。来なければ、城で無事を数えるだけだった。
——でも。
葡萄酒をひと口含んで、思う。早く、帰りたい。城に帰って、書庫に籠もって、リタに髪を結ってもらって、夜はあの人と、誰の耳も気にせずに——
そこまで考えて、雑念を捨てるように毛布を頭まで被って、眠った。
それから、数日。
岩場を抜けたところで、行軍が、止まった。
先頭で、セラフィンが片手を上げていた。合図が列を伝い、千の軍が、ゆっくりと足を止める。ジルヴェスターが馬を降り、クラリスに手を差し伸べた。
「おいで。」
言われるまま、彼のあとについて、岩場の縁まで登った。
そして——息を、呑んだ。
高原が、終わっていた。
足元から、大地が切れ落ちている。その下に——広がっていた。帝国の領土が。高原の赤茶けた色とは違う、灰色と黒の入り混じった、荒れた平野。畑とも荒野ともつかない土地が、遥か地平まで続いていた。
そして、数里先の東に。
砦があった。
大きい。北西の砦より、ずっと大きい。黒い石を積み上げた、無骨な四角い要塞が、平野の入口に蹲っている。壁の上に、点々と、人影が動いているように見える。
その砦の、遥か向こう。
地平の際に、灰色の塊が霞んでいた。塔のような影が、いくつも天を突いている。恐ろしく大きな街の輪郭が、冬の薄い光の中で、まるで巨大な墓標のように——
帝都。
見ているだけで、背筋が、冷えた。あの街の奥に、いる。八百年前に討たれたはずのものが。
あの街から、五年かけて水場が掘られ、二千の兵が送られ、あの砦を通って、アルダーンへ——
壁の上の人影のひとつが、こちらを向いた気がした。
クラリスは、思わず、岩の陰に身を伏せた。
「……見えてはいない。この距離だ」
ジルヴェスターが、隣に膝をついて、低く言った。その目は、砦から離れていなかった。
「あれが——ラーゲン高原の入口と、リアンツァ側を抑える砦だ。帝国は、あそこから高原へ出てきたし、リアンツァ側の見張りもしている。」
彼は、岩の縁に手をかけたまま、静かに続けた。
「まず、あの砦を落とす」
風が、高原の縁を吹き抜けていった。その音の向こうで、遠い砦の上の旗が、はためいていた。




