谷の底2
谷は、奥へ進むほど、登りになった。
平らだった谷底が岩場に変わり、やがて急な斜面になる。セラフィンは、その岩場を大股で登っていった。魔石の袋を肩に担いだまま、足場を選ぶ様子もなく、一度も振り返らない。
クラリスは、あたふたと、その背中を追う。
岩に手をかけ、膝をつき、ずり上がるように登るたび、白いローブは遠ざかっていく。息が上がる。喉が焼ける。今日一日で、落ちて、埋まって、囲まれて、そして登っている。体はとっくに限界を過ぎていた。
「身体を軽くする魔法でも、お作りになったらどうですか」
ちらりと振り返ると、セラフィンが言った。
その声には、嘲りではなく、ただの、提案だった。それが余計に腹立たしかった。
「もう……十分に、軽いんです……!」
セラフィンは再度、少しだけ振り返ったが、あまり時間はありません、とだけ冷たく言うとスピードを落とすこともなく進んでいく。
日が、暮れてきた。
岩場は闇に沈み、足場は見えなくなった。手探りで岩を掴み、足を置き、置いた足の下の石が転がる。何度目かに、足がもつれた。
膝を、思い切り打った。
「っ……」
声を殺して、岩にしがみつく。痛い。けれど泣いている暇はない。歯を食いしばって立ち上がり、よたよたと、また登る。
白いローブが、止まっていた。
セラフィンが、振り返っていた。暗がりの中で、その目がじっとこちらを見ている。何も言わない。ただ、登ってくるクラリスの足取りを、頭の先から足元まで、検分するように見ている。
——休むか、と。
言ってくれるのだろうか。そう思って、口を開きかけた。
セラフィンは、片手を伸ばした。青白い光が、その掌に灯る。光はクラリスの膝の上を撫でて、打った痛みが、じわりと引いていった。
「……早く進みますよ」
それだけ言って、彼はまた前を向いた。
岩陰を見つけたのは、それからしばらく登ったところだった。
張り出した岩の下が、風を遮る窪みになっている。セラフィンが「ここで夜を明かす」と短く言い、袋を下ろした。クラリスはへたり込むより先に、鞄から暖房の板と魔石を取り出した。手が震えるほど寒かった。マナを通す。ぼ、と小さな火が板の先に灯り、岩陰に橙色の光が広がる。
ほう、と息をついた。
火に手をかざして——自分の手を見て、クラリスは眉をひそめた。
ぼろぼろだった。掌は擦り剥け、指の腹は皮が剥け、爪の間に赤茶けた土が詰まっている。魔石の袋を掴んだとき、崖の土を掴んだとき、埋まった土から引き抜かれたとき——いつ傷ついたのかはもう分からない。
「見せてください」
声と同時に、手首を軽く掴まれる。
セラフィンは、正面に膝をついていて、クラリスの手を取って、火のほうへ向けている。
青白い光が、掌の上に灯った。
傷が、塞がっていく。剥けた皮が閉じ、赤黒く滲んでいた血が消え、指先の痛みが遠のく。
神聖魔法はルークの使う魔法と比べると何故か少し冷たい感じがした。
光が消えた。彼は手を放した。
「……式を組む手だ。大事にされたほうがいいかと。あなたは少し、怖いもの知らず過ぎる、自分の能力を理解した上で行動したほうがいい」
ここまでこのスピードについてきた為に、手もぼろぼろになったのにと思い、言い返す為に口を開いたが、そもそも魔石を守ろうとして谷に落ちたことを思い出す。
谷に落ちかけたときセラフィンがすぐに掴んでくれてなかったら、どうなっていたかは分からない。
「助けてくれてありがとうございました」
セラフィンは、その言葉に片眉をあげると、小さくため息をつき、火を見つめる。
暗闇の中、火が、セラフィンの冷たい顔を照らしている。
「聖女様がどんな方だったのか記録は残っているんですか?」
ふと、クラリスはセラフィンをみて思い出し、徐に口にしていた。
セラフィンは、その冷たい瞳を光らせ、クラリスを見る。
「あ..いえ、聖国にも絵も何もなかったので、どんな方だったのかなと思っただけです」
クラリスは慌てて手を振り、弁解のようなものをしたが、その言葉さえも暗闇に飲み込まれる。
火の爆ぜる音だけが、長く続いた。訊いてはいけないことだったのかと、後悔しはじめたころ——
「……記録には」
闇のほうを向いたまま、セラフィンが言った。
「神聖力を、遊ぶように使ったと言われています」
「遊ぶように……?」
「神の使徒としての祈りや守りはもちろんですが、その神聖力を楽しまれ、多くの民に愛されてていたと」
聖騎士たちの、陰鬱とした雰囲気とはかけ離れた説明に少しクラリスは違和感を感じ、眉を顰める。
ふと、向かいに座る聖騎士を見ると、変わらず火を見ていたが、なぜかその瞳の底に少し何か暴力的なようなものが走った気がした。
クラリスは、治った掌を膝の上で握った。
そして、ふと、気づいた。
——知らない男の人と、二人きりだ。
息が、少しだけ、浅くなった。
セラフィンが、それに気付いたのか、顔を上げた彼と、目が合う。その瞳はいつもの感情のない目だったが、ふっと嘲るように小さく笑った。
そして、彼は、目を閉じた。
長い、疲れたような、ため息をひとつ吐く。
「……私は周りを見ています。あなたは、もう休んでください」
火から少し離れた岩に背をつけて、彼は座り直した。剣を膝に置き、谷の奥の闇のほうへ顔を向ける。
クラリスは、しばらく動けなかった。それから、外套を体に巻きつけて、火のそばに小さくなる。
なかなか眠りにつけなかったが、身体は疲れてたのか、気付けば朝になり、セラフィンに揺らされ起こさる。
我ながら能天気だと、心の中で笑った。
谷を抜けたのは、昼近くだった。
セラフィンの言葉通り、谷は北へ下るにつれて浅くなり、やがて赤茶けた斜面が、上の道の高さに追いついた。最後の岩を越えて、平らな地面に足をつけたとき——
蹄の音が、聞こえた。
「クラリス!!」
金の髪が、視界の端から飛び込んできた。
ジルヴェスターだった。馬を飛び降りるというより、転がり落ちるように地面に着いて、そのまま走ってくる。鎧も、剣も、外套も、全部そのままで。目の下にうっすらとくまが広がる。
クラリスは、考えるより先に、走った。
土だらけの外套も、血が染み付いて青黒くなったぼろぼろのチュニックも、何もかも構わずに、その胸に飛び込んだ。両腕が、痛いほどの力で背中に回る。鎧越しに、心臓が、めちゃくちゃに速いのが分かった。
「……っ、クラリス……」
声が、掠れていた。
「無事か。その血は何だ?怪我をしてるのか?」
「だ、大丈夫、です。こらはバジリスクの血で…。」
「…よかった」
言葉はそれだけで、あとは、ただ抱きしめられた。彼の腕の中で、クラリスは初めて、自分の膝が震えていることに気づいた。安心すると、こんなにも力が抜けるのだ。
彼の肩越しに、白いローブが見えた。
セラフィンは、魔石の袋を地面に下ろし、そのまま、何も言わずに——聖騎士たちのほうへ、歩いていった。




