運転士の手帳
終バスを長く運転している井塚は、律へ私物の手帳を見せた。天候、遅延、道路工事の様子。細かな文字で十年分が記されている。人影の記録は最近の頁にしかなく、その前は同じトンネルを何度も走っていた。
「ここだけは、変に早く感じるんです」。井塚はトンネルへ入ると出口が近づくのが妙に速いと語った。律は車載記録の速度と走行距離を計算し、法定速度を守っていることを確かめた。感覚と計測値は一致しないことがある。
映像には、誰も座っていない座席のシートベルトが一瞬だけ引かれる場面があった。しかし古い車両は揺れで金具が動きやすい。整備士は交換部品を手配し、故障を放置しないと言った。
翌朝、井塚の勤務が終わるのを待って、律は手帳を返した。井塚は退職を控えており、長年走った路線を離れることへ寂しさを感じていた。「変な客でも、最後まで乗ってくれるなら悪くないですね」。律は笑い返したが、乗客の安全を確かめるまでは単なる冗談として扱った。
律は車庫の出入口に立ち、整備を終えたバスが順番に出ていくのを見送った。夜にはまた別の運転士がハンドルを握る。異変を知らない人へ不確かな噂だけが残るのは避けたかった。
井塚の手帳は強い筆圧で書かれていた。書き損じた頁には線を引き、横へ正しい時刻を残してある。律は消しゴムで消した方が読みやすいのではと尋ねた。井塚は『あとで何を勘違いしたか分かるから』と答えた。運転士の仕事にも、退魔師の報告と似た厳密さがあった。
井塚の手帳には、トンネルの開通日に一行だけ『待合を壊した』と書かれていた。律はその日付を控え、次の調査を決めた。




