湯気の伝票
律が銭湯へ戻ると、榊は古い燃料費の伝票を机へ広げていた。配管が交換された日の記録が残っていたという。数字は細かいが、工事に立ち会った職人の名前は一人だけ読めなかった。墨が滲み、紙の表にも裏にも移っている。
当時の工事会社は廃業していた。律は法務局の登記簿を調べる代わりに、まず地元の設備業者へ古い管の形式を確認した。浴槽の下を開けるには水を抜き、営業を休まなければならない。必要性が定まらない段階でそこまでするつもりはなかった。
夕方、常連客の男性が「昔は湯を止める三分前に鐘が鳴った」と教えてくれた。従業員が先に裏口を開け、遅い客が脱衣場へ戻る時間を作るためだったという。時計の三分と一致するが、今夜の現象がその習慣から来た証拠はない。
榊は伝票の端に残る赤鉛筆の印を指した。そこには『最後の一人を待つ』と書かれていた。律はその文字を撮影し、常連客へ不用意に見せなかった。誰かの家族に関わる記録かもしれない。
閉店後、番台の時計は今日も三分進んだ。しかし壁の時計は止まらない。代わりに脱衣場の鏡が一面だけ曇り、指一本分の線が上から下へ引かれた。
榊の妻は経理の帳簿を見て、工事の年には浴場を長く休んでいたと教えた。水が使えなかったため、近所の銭湯が常連客を引き受けたという。律は古い伝票が怪異の記録だけではなく、困った時に助け合った店の履歴でもあることに気づいた。榊は後日、隣町の主人へ礼を伝えようと話した。
榊がその線を拭こうとすると、律は静かに止めた。鏡が乾くまで見守り、傷か水滴か調べる。鏡の前には今日の忘れ物のタオルが一枚、きちんと畳まれていた。




