雨の日の通路
住民が戻る朝、集合住宅の廊下には引っ越しの段ボールと洗濯籠が並んだ。子供を連れた夫婦が管理人に礼を言い、作業員は三階の仮設柵を外した。澪は玄関に立ち、避難名簿の人数と帰宅した人数を照らし合わせていた。
「もう音はしませんか」
母親に聞かれ、三崎は「昨夜は階段まで来ていません」と答えた。安全だと言い切ることより、確かめた範囲を伝えることを選んだ。定期点検の日付も紙に書いて渡した。
三〇七号室の棚には片方だけの黄色い長靴がある。管理人が掃除に入るときは、棚に積もった埃を払う。ただし靴を新しいものへ替えない。それが協会と相談して決めた約束だった。
昼前、澪は最後の立ち入り札を回収した。廊下の窓から車道が見える。かつての小川は、車の下で誰にも知られず流れているのかもしれない。
「討伐件数に入りませんね」
澪が言うと、三崎は荷物を運びながら「入らない」と答えた。「代わりに事故がなければ、それでいい」。
支所へ戻った澪の机には、新しい夜勤表が置かれていた。人手不足で休みが一日動いている。三崎は受領印を押し、代休を忘れず取るよう念を押した。
澪は返却する鍵を管理人の手へ渡した。まだ冷たい金属の感触が残る。管理人は「この歳になっても、知らないことばかりですね」と言い、鍵をいつもの場所へ掛け直した。三崎は何も答えず、いつもの位置に戻った鍵を一度だけ見て頷いた。
夕刻、管理人から短い電話があった。雨が降り始めたが、誰も驚いていないという。「玄関の石皿に、水が少しだけ入っていました」。澪が報告欄へ書こうとすると、管理人は付け加えた。「あの子の傘、やっと見つかりそうな気がするの」。
澪はその言葉を感想欄へ残した。事実と願いを混同しないために。そして、願いを無かったことにしないために。




