玄関の水皿
建物の再開検査では、三〇七号室の水分計が一か所だけ異常値を示した。澪が示したのは棚の下ではなく、玄関の敷居だった。三崎は位置を写真に残し、管理人へ漏水の点検を依頼した。
配管に損傷はなかった。代わりに古い下宿屋の図面を見ると、敷居の下に雨水を受ける石皿が埋められていた。住人が足を洗うためではなく、帰ってくる子供が川の水をこぼさないようにするためのものだ、と記録にはある。
「帰ってくる子供って、本当の子供ですか」
澪は資料を持ったまま尋ねた。三崎は分からないと答えた。退魔師の仕事には、最後まで名前の付かない相手がいる。
管理人の許可を得て敷居の一部を開くと、小さな石皿があった。縁が欠け、底は乾いている。大工が洗って元の場所へ戻した。水を入れるかどうかで三崎と澪の意見は割れた。澪は雨水を入れたかったが、三崎は人間が勝手に供物を作ることを避けた。
その夜、細い雨が降った。管理室の監視画面に、誰もいない三階の明かりが映る。棚の横を歩く足音が一度だけしたが、階段へは向かわなかった。
床を開く工事は住民が仕事へ出る時間に合わせて行った。音を嫌がる人がいれば日程を変える。澪は作業の立ち会い名簿を作り、誰がいつ敷居を触ったかを書き残した。新しい結界を張るより、その日の人の出入りを把握する方が骨の折れる仕事だった。
翌朝、石皿の底には水が薄く溜まっていた。排水管は乾いたままだった。澪は『原因未確定』と記した報告票を三崎に渡した。
管理人は敷居に小さな布を置き、「濡れた靴のままじゃ、廊下が滑るもの」と笑った。怖がっていた人が自分の暮らしの話をできるようになったことを、澪は何より確かな変化だと感じた。




