消えない消し跡
東部支所の資料室で、井波は島岡から借りたインクの瓶を検査台に置いた。内容物が少なく、栓を開けるだけで乾燥が進む。保存の専門家を呼び、まず瓶と紙の材質を調べてもらった。何かを起こすための実験はまだしない。
鑑定に立ち会った澪は、二十年前の報告書の空欄を斜めから照らした。紙の繊維がところどころ毛羽立っている。書いた文字が消えたのではなく、消そうとして擦った形跡もあった。島岡の記憶とは違う事実で、誰かが手を加えた可能性が浮かぶ。
「人が消したなら、理由が要りますね」。専門家は断定を避けた。道具を使った痕と、実際に文字を消した人物は別の問題だ。井波は報告書の複写を増やさず、原本を保護紙で挟み直した。
夕方、島岡から電話が入った。帰ったあと考え直したことがあるという。当時の四人目はいつも傘を閉じたまま持っていた。雨が降ると危ない場所だから、濡れるのを嫌ったわけではないはずだと。
澪は高架下で保管した黒い傘を思い出す。しかし二つの品が同じものだという証拠はない。高架の記録を取り出し、傘の柄の形と島岡が覚えている形だけを比べる。柄の先端は一致しなかった。
専門家は紙の上に置いた薄い透明板を動かし、消し跡の凹凸を光で示した。澪には黒い文字より、書いた人が強く筆圧を掛けた位置が印象に残った。何度も名前を記そうとしたのか、それとも消すためにこすったのか。答えを決めないまま、井波は光の角度を変えた写真を三枚保存した。
閉館時間になっても、資料室の机には削りかすほどの繊維が残った。井波はそれを掃除機で吸わず、薄い紙へ移した。消えていった名前より先に、消された紙の傷が残っていた。




