声を録らない夜
奈央は橋の監視員に、夜間録音の機器を設置したいと相談した。名前を呼ぶ声は録音に残らない可能性が高い。それでも時刻を確定する助けにはなる。監視員は首を傾げた。「誰かの声を集めるなら、周りの家の窓まで入りますよ」。
相良は一晩だけの設置をやめ、音量の変化だけを測る機器に替えた。録るべきなのは怪異だけではない。住民の生活音をどう扱うかも、現場の責任だった。機材の設置中、川沿いの住宅から夕飯の匂いが漂ってきた。
午前零時を過ぎ、橋脚の影が一度濃くなった。奈央は耳元で「おかえり」と聞いたような気がした。記録用紙に書こうとして手を止める。自分が期待していた言葉なのか、実際に聞いたのか。相良は「曖昧なら曖昧でいい」と告げ、二人の証言を別々に封じた。
森崎が地上で靴の泥を落としていると、見知らぬ老男性が立ち止まった。旧道の案内板を探していたという。工事で変わった道順を教えると、男性は礼を言って歩き去った。誰かが橋へ来るたび異変と考えていたら、普通の人の用事が見えなくなる。
明け方、測定器の記録には小さな山が一つ残った。車も風も少ない時刻だった。原因は未確定だが、次に観測する時の基準になる。奈央は画面を写真に撮り、無関係な住宅の声が残っていないことも確認した。
奈央の手帳には、音を聞いた位置の横へ体温と疲労の度合いも記されていた。前の負傷以来、体調で聴こえ方が変わることを気にしている。相良はその欄を消す必要はないと言い、ただし『体調が悪いから幻聴』とも書かないよう伝えた。記録は本人を疑うためではなく、条件を並べるためにある。
相良は封鎖札を取り替え、帰宅した。誰かに呼ばれた夜のあとでも、彼の家では洗濯機の終了音が鳴っていた。




