見送る側の椅子
井波が茶舗の古い見取図を持参すると、宮野は茶棚の奥から折り畳み椅子を出した。座面が低く、脚の片側だけ新しい木で継がれている。「祖父はここに座って、路地の終わりを見ていました」。路地は塀に突き当たるはずなのに、祖父はいつも誰かを待っていたという。
古川律は椅子を木戸の前へ移動させる提案を退けた。古い品には、置かれていた位置そのものが意味を持つことがある。井波は座面の裏に残る墨書を写し取り、店の古い帳面と照合した。墨書には人名ではなく『迎え番』とだけ記されていた。
宮野の叔母が午後になって店へ来た。祖父の見張りは商売上の癖だと信じていた人だ。「帰ってこない客の勘定をずっと残していたのよ」。帳面には茶葉一包の貸しが何年も繰り越されていた。借り主の名前の欄だけ、紙が小さく擦り切れている。
澪がその頁を光に透かすと、消された文字の横に日付があった。夏祭りの翌朝に当たる。叔母は『あの夏は祭りの日に雨が降った』と言うが、近隣の気象台には晴天の記録が残っている。どちらかを嘘と決めつけず、二つの記録を並べた。
椅子の脚を修理したのは宮野自身だった。直さなければ祖父の座り癖のついた場所だけ沈んでしまう。澪は継ぎ木の年を聞き、椅子が怪異に触れた証拠として扱わないことを約束した。
叔母は祖父が晩年に耳を遠くしたことも話した。誰かを待っていたのではなく、配達の自転車が帰る音を聞こうとしていた可能性もある。澪が椅子の背を確かめると、人の手で長く磨かれた場所だけ色が濃かった。帰宅時刻を知らせる道具だったのかもしれない。宮野は椅子の下へ小さな敷物を戻した。
夕方、宮野は椅子を元の位置へ戻した。空席は木戸へ向けられず、店の入口を向いていた。戻ってくる人を待つ場所と、今日の客を迎える場所は、同じでなくてもよかった。




