橋の下の声
小さな河川橋の下で、夜になると人の名前を呼ぶ声がすると通報があった。最初の調査に向かったのは相良と新人の森崎だった。橋には照明がなく、対岸の住宅地からテレビの音が流れてくる。
声は水面の近くから聞こえた。森崎の名を一度だけ呼び、そのあと相良の名を呼ぶ。二人は互いを見た。現場へ入る前の名簿を見た人間は、周囲にいないはずだった。
相良は返事を禁じ、橋脚の周囲へ札を置いた。札は水に触れない高さなのに、縁から湿り始めた。怪異が広がっているのではなく、橋の下だけに別の空気が溜まっているようだった。
「誰かが溺れた記録はありますか」
森崎の問いに、相良は首を振った。すでに消防へ確認したが、近年の水難事故はない。昔の事件まで調べる必要はある。
橋の反対側で、小さな自転車のベルが鳴った。森崎が顔を向けると、声がその瞬間に近づいた。「帰りたい」。耳元で囁かれたような距離だった。
橋の下には釣り糸も落ちていた。相良は靴に絡まないよう拾い、怪異とは関係のない危険を一つ減らした。
橋の下へ入る前、森崎は退避経路を何度も確認していた。相良はその慎重さを評価し、橋上の歩道を指した。走って戻れる道でも、足を取られれば使えない。二人は懐中電灯の予備を互いに確認し、無線の周波数を別班へ伝えてから階段を降りた。
相良が森崎の肩を掴み、橋から退く。森崎の足元には、いつの間にか細い川砂が積もっていた。二人が車へ戻ると、砂は靴の中に入り込んでいた。
支所へ戻った相良は、森崎を医務室へ連れて行った。報告書より先に体温と脈拍を確認する。怪異が何を望んでいるにせよ、こちらの体は一つしかない。




