名前を消さない
本部の監査担当が東部支所を訪れた。古い案件の扱いを見直すためだった。若い担当官の伊佐は、井波の説明を聞くと、すぐに結論を出さず複写資料を順に並べた。
「規定上、人数が合わない報告は正式に受理できません」
伊佐の言葉は冷たく聞こえたが、井波は怒らなかった。規定は事故を防ぐためにある。問題は、規定へ収まらない出来事を無かったことにする危険だ。
篠原澪は木戸の現場写真と結界糸を示した。踏んではいけない石があったこと、三人で戻ったこと、四つ目の結び目が残ったこと。自分が確かめた事実だけを説明した。
伊佐は細い糸を指で触れずに見た。「存在しない人間の名前を書け、とは言いません。ただし『確認できなかった』欄を新設する必要がありますね」。
井波は驚いて顔を上げた。長年、差し戻されるたびに欄外へ書き加えていた文言だった。小さな空欄が一つ増えるだけでも、次に現場へ入る者が知れることは増える。
受付担当の若い職員は、初めて訪れた監査官に緊張していた。井波が普段どおり挨拶をすると、少しだけ肩の力が抜けた。
伊佐は本部へ戻る前、支所の受付がどのように電話を受けているか見学した。通報者が話す言葉と、記録に残す言葉が一致しないことは珍しくない。澪が相手の発言を言い直さず書いているのを見て、伊佐は次の様式改訂で自由記述欄を広げると約束した。
会議後、伊佐は茶舗の路地へ行きたがったが、三崎が止めた。監査と現場検証を同日に行う必要はない。伊佐は理解を示し、資料を持ち帰った。
その日の終業後、井波は資料棚の札を書き直した。『未確認の同行者あり』。名前が分からない誰かに、無理な名前を与えないための記録だった。




