呼び返さない名前
谷から聞こえる声は、人の名前を呼ばなかった。ただ「こちらだよ」と繰り返す。深見岳は堀田に返事を禁じ、足元の落ち葉を棒で払った。閉鎖された道には、土に埋もれた古い階段が残っていた。
「誰もいないように見えますが」
堀田が言うと、深見は双眼鏡を渡した。百メートルほど下に、小さな赤い布が枝へ結ばれている。登山者が付けた目印なら、救助隊へ確認する必要がある。
二人は現場の座標を送信し、谷へは入らなかった。足を踏み入れれば滑落する危険がある。山では怪異より地形を軽く見た者から怪我をする。
夜、連絡所へ戻ると、赤い布と同じ色の腕章が資料庫にあった。昔この道を整備した山岳会のものだという。会員の名簿に、崩落で亡くなった少年の記録がある。少年は道を知らせる役を任されていた。
深見は記録を見て「声の主だ」とは言わなかった。山には過去の出来事が折り重なり、似た声も、似た布も残る。
堀田は登山口の注意書きを英語でも用意した。観光客が増え、地元の慣習だけでは伝わらないことがある。
翌朝の点検で、閉鎖道の入口には新しい踏み跡があった。深見は警察にも情報を伝え、若者が試しに入らないよう注意を求めた。見えない声より、生きた人間の好奇心の方が事故を増やすこともある。堀田は週末の巡回人数を増やす計画を立てた。
翌朝、堀田は登山者向けの看板の文面を作った。『旧道は崩落につき通行できません』。深見はその下へ『声や物音がしても谷へ下りないこと』と加えた。
看板を立てる日、道標の影は何も示さなかった。雨上がりの落ち葉が明るく光り、谷から聞こえるのは水の流れる音だけだった。




