水飲み場の朝
校庭の補修が終わる朝、矢嶋は旧洗い場から保存する石を磨いていた。児童の通路を確保し、井戸の跡には丈夫な蓋を付ける工事が行われた。水筒は学校資料室の棚へ収められることになった。
篠原澪は蓋の周囲に術式の残滓がないか確認した。反応は弱く、地面の湿りは自然な範囲へ戻っている。だが小さな足跡が誰のものだったかは、最後まで分からなかった。
「もう何も出ませんか」と校長が尋ねる。澪は「通常の使用に支障がない状態です」と答えた。それ以上の保証は誰にもできない。校長は説明を聞き、子供たちの動線を確認して頷いた。
開放された校庭へ児童が飛び出してきた。鉄棒の列ができ、砂場では小さな口論が起き、教師が間へ入る。怪異の気配より大きな声で、普通の一日が始まった。
校長は水筒を覚えていた女性へ写真を送ることにした。旧洗い場の石を校内に残せたと伝えれば、昔の校庭を知る人には意味があるだろう。
澪は水を一口飲んでから、門の外へ出た。
矢嶋は石を保存する箱に、昔の井戸の位置を記した小さな地図を添えた。子供たちに見せる時は、怪異ではなく学校の暮らしを話すつもりだという。澪は地図の縮尺を確認し、現在の校庭の見取り図との違いを一つずつ直した。時代が変われば、同じ場所でも役割が変わる。
澪は門を出る前、矢嶋が手洗い場の蛇口を締め直すのを見た。水が止まると、傍らで細い声が「冷たい」と言った気がした。澪が振り向いても、子供たちは遠くにいる。
彼女はその場で札を抜かなかった。水飲み場の蛇口は閉まり、転倒事故も起きていない。職員室へ戻って報告書に一行加え、次の点検日を決めた。




