古い洗い場
土木業者が地面を慎重に開くと、埋めた井戸の横に石で囲まれた洗い場が残っていた。水道の配管は切断されている。篠原澪は井戸よりも、洗い場の縁に並ぶ小さな刻み傷を気にしていた。
矢嶋は傷を数えた。二十七本。児童が水筒を置く位置に、何度も同じものが当たってできた傷だろう。校長は文化財担当へ相談し、石を保存することにした。
同窓会から連絡が来たのは昼休みだった。水筒を覚えているという女性が、区内の施設に暮らしている。彼女は小学生の頃、友人と水筒を取り違えたことがあったという。
「返しそびれたの。あの子は転校しちゃったから」
澪は女性の話を遮らなかった。水筒の持ち主はもう分からないかもしれない。それでも女性は、当時洗い場で交わした約束を覚えていた。「冷たい水を見つけたら、いっしょに飲もうね」。
矢嶋は使われなくなった石の角を布で拭いた。表面の傷は消さず、そのまま保存すると決めた。
女性は写真を見ながら、洗い場の水が夏でも冷たかったと話した。傷だらけの膝を洗って帰った日、友人が黙って水筒を差し出してくれたという。澪はその話を聞き終えてから、卒業名簿を調べる許可を取りに行った。本人の願いを、調査の材料だけにはしたくなかった。
学校へ戻ると、洗い場の石に新しい水滴が三つ付いていた。誰かが水を注いだ形跡はない。澪が拭おうとすると、矢嶋は止めた。乾くまで様子を見たいという。
夜間の点検では、井戸からの水は確認されなかった。澪は『児童の安全確認を継続』と記した。失われた洗い場のすべてを説明しなくても、子供が安心して遊べる校庭に戻すことはできる。




