湯飲みの底
茶舗の奥座敷で、篠原澪は湯飲みを両手で包んでいた。木戸の向こうで感じた息苦しさは、湯気を吸ううちに少しずつ引いた。古川律は温度計の記録を確認し、数字が途中で途切れていることを悔しがった。
「一番おかしかったのは、石でも鐘でもなく、あの人でした」
律が言うと、三崎は静かに「そうかもしれん」と返した。それ以上は話さない。目撃した事実より評判を先に書けば、調査が歪む。
老女は三人の湯飲みを替え、東雲が昔から時々茶を飲みに来るとだけ言った。「母の代から知ってると言いたいけど、それじゃ年が合わないね」。笑い方は穏やかだった。
澪は若い男性の顔を思い出した。何もしていないように見えたのに、霜が溶けた瞬間だけ場の重さが変わった。術の形を探そうとしても、どこから始まったのか分からない。
三崎は帰り支度を整え、茶舗の老女へ巡回予定を渡した。木戸は明日もそこにある。危険な石が見つかった以上、路地を通る者への注意を続けなければならない。
老女は東雲の分の湯飲みを片づける時だけ、少し時間をかけていた。底に残った茶葉は普通のものに見えた。澪はそこから何かを読み取ろうとして、やめた。知りたがる気持ちは強いが、目の前の人に尋ねられないことを、勝手に想像で埋めてはいけない。
店を出ると、学校帰りの子供たちが商店街を走っていた。誰も木戸の前へは近寄らない。それは退魔師の札より、町の人たちが長く守ってきた習慣のおかげだった。
支所へ戻った澪は、茶舗の包みを開いてほうじ茶を分けた。報告書の余白には『入域者三名、帰還者三名』と記した。四人目を示した結び目は、今回どこにもなかった。




