木戸の鍵
翌日、篠原澪は木戸の調査許可を更新するため茶舗へ向かった。昨日の若い男性はもういない。店主の老女は何も説明せず、古びた真鍮の鍵をひとつ渡した。「母が預かったものでね。開ける時が来たら、返せって」。
鍵の札に彫られた地名は、支所で井波が保管していた鍵束と同じだった。澪は受領書を作り、鍵を一度机へ置いた。預かり物には、預けた人と返す相手がいる。どちらも分からないなら扱いは慎重にすべきだ。
老女は母親の話をした。戦後まもない頃、路地の向こうから怪我をした人たちが出てきた。町の医者が手当てし、茶舗は湯を沸かして待った。その中には退魔師もいたが、名を名乗らなかったという。
「みんな帰ったんですか」
「帰った人も、帰らなかった人もいたさ」
老女は隠さなかった。木戸の内側では、帰る方向を失うことがある。昔から町の人は、そこへひとりで入らないよう決めていた。
老女は鍵を渡す前に、母親の手帳を開いて見せた。鍵を預けた日の記録は、日付だけが墨で濃く塗られている。「忘れたかったのか、消せなかったのか」。澪には答えられなかった。老女は手帳を閉じ、茶葉を少し多めに包んだ。話せない過去にも、毎日の商売は続く。
澪が鍵を受け取ろうとすると、店主が指を止めた。「昨日のお客さんは、鍵を使わなかったよ」。意味を測りかねる澪へ、老女は深い湯飲みを差し出した。「お茶を飲んでから行きなさい。急ぐ時ほどね」。
その日の午後、支所の鍵箱には真鍮の鍵が一本増えた。井波は裏の棚の引き出しを開け、古い鍵と並べて置いた。二本は形が違うのに、刻まれた地名だけが同じだった。




