茶舗の客
古川律が商店街の茶舗を訪ねると、店主の老女は湯飲みを二つ出した。表通りの店はごく普通で、店先には新茶の袋と米菓が並ぶ。裏路地について聞くと、老女は少しだけ茶を注ぐ手を止めた。
「昔から、通り抜けられる日と駄目な日があるんですよ」
それ以上は説明せず、裏口の扉を開けて見せた。幅一メートルほどの路地に、古い木戸がある。扉の奥からは水を沸かす音がするのに、家は建っていない。
律は木戸に触れず、道路の境界標を調べた。区の地図では道が途中で終わり、古い図面ではさらに北へ抜けている。建物の所有者も境界を曖昧にしたままだった。
老女は「茶を置いておくと、たまに減ります」と笑った。鼠かもしれないし、風で零れたのかもしれない。律が湯飲みを覗くと、表面に細い波紋が立った。誰も触っていない。
店の奥には、茶葉の勘定帳とは別に『お預かりもの』と書かれた古い箱があった。中身は鍵、割れた簪、名前のない手紙。老女は亡き母が預かった品だと言う。
湯飲みの底には茶葉が数枚、ゆっくり沈んでいた。
店先の茶筒には、売り物と試飲用で違う札が付いていた。老女は茶を量る時だけ、客に背を向ける。その短い間に、裏口の湯の音がほんの少し強まった。律が顔を上げても、老女は振り返らない。何十年もその音を聞きながら商売を続けてきた人の手つきだった。
律は品物を持ち帰らなかった。代わりに由来を尋ね、分かるものだけ記録した。木戸の向こうへ入るために、誰かの大切な物を試すつもりはない。
帰り際、老女は小さな包みを差し出した。香りの強いほうじ茶だった。「路地に入るなら、帰ってきた時に飲むといいよ」。




