小さな契約書
早瀬由布は借家の古い権利書を読んでいた。登記名義は人間のままなのに、借用の覚え書きには『北の軒下は小さい者の往来を妨げぬこと』とある。昭和初期の墨書きだった。
「神社を貸したわけじゃないんですね」
禰宜の松代は安堵したようだった。由布は覚え書きの続きへ指を置いた。年に一度、年貢代わりの米を奉納すること。荒天の日は板戸を塞がないこと。人間の子供を連れ込まないこと。
最後の一文が気になった。松代が聞き取りを始めると、近所の老人が昔、狐面を被った子供たちと境内で遊んだと話した。怪異か普通の子供か、老人にも分からない。
由布は小さい引き戸へ米を一粒置き、敷居を越えずに声をかけた。「いまの家主と話がしたい。勝手に住み場所を取り上げるつもりはない」。
夕暮れまで何も起きなかった。松代は待つ間に庭を掃き、由布は破れた契約書を複写した。話し合いを求めても、返事をする義務が向こうにあるわけではない。
戸の前に残った小さな木屑も、由布は袋へ収めて保管した。誰が削ったか分からないからだ。
松代は書き換えられた契約書を新しい紙へ清書したいと言った。由布は原本を残し、複写へ読みを添える方法を勧めた。古い文字の誤読が、境界の約束を変えるかもしれない。互いに読めない言葉があるなら、分からないと明記しておく方が安全だった。
帰り支度をすると、引き戸の下から細い紙が一枚出てきた。文字はなく、乾いた土で家の形が描かれている。屋根の下には黒い点が七つ。
松代はそれを七匹の狐だと言った。由布にはそう見えなかった。点の一つだけが、外へ向かって伸びている。誰かが外にいると伝えたいのかもしれない。




