朝の見舞い
少年の手術当日、久我千鶴は病院の外で待機した。退魔師として立ち会う必要はもうないと言われていたが、窓の外に現れた手が人の不安へ寄ってくるなら、今日は何か起こるかもしれない。
病棟師長から届いた連絡には、手術が予定通り始まったとある。千鶴は待合室の椅子で報告書の下書きを続けた。護符や呪具よりも、同意書や消毒の手順がものを言う時間だった。
午前十一時、廊下の窓を拭く音がした。千鶴が立ち上がると、清掃業者の男性が実際に窓を拭いていた。年季の入った作業服に、新しい社章が付いている。
「前はここ、慰霊室だったんでしょう」
男性は師長から聞いたらしく、倉庫の方へ目をやった。「うちの母が昔、ここで働いてたんです」。千鶴は女性の名前を尋ね、旧記録と照合した。雪の日に亡くなった清掃員の息子だった。
彼は慰霊室の移転先を知らなかった。千鶴が病院の事務へ案内すると、男性は古い写真に写る母親を指差した。「若いなあ」。思いがけず漏れた言葉に、千鶴は何も付け加えなかった。
清掃員の男性は写真を持ち帰らなかった。病院のものとして保管してほしいと言い、代わりに複写を一枚受け取った。裏には撮影年と慰霊室の名前を記してもらった。千鶴はその手続きを傍らで見守り、昔の一人と今の一人が同じ場所でつながったことを、特別な術とは思わなかった。
昼過ぎ、手術は無事終わった。少年の病室には家族が駆けつけた。窓の外に手の跡はなく、夜も子守歌は聞こえなかった。
千鶴は鈴の件を『鎮静の可能性あり、正体未確認』と報告した。帰りのエレベーターで、清掃員の男性が母の写真を見ながら、少しだけ泣いていた。




