三階の足跡
三階へ上がる前、三崎は澪の靴裏へ白い粉を薄く塗った。協会が使う追跡用の石灰で、人間の足跡なら普通の粉、怪異が通った場所なら粉の縁が崩れる。そう教わったばかりの澪には、その違いを確かめる機会がなかった。
廊下には子供のものらしい小さな濡れ跡が六つあった。三崎は数を読み上げない。澪が七つ目を見つけて報告すると、彼は初めて頷いた。
「向きは?」
「階段へ。全部、階段へ向かっています」
降りた跡は一つもなかった。
空室のはずの三〇七号室から、古いテレビの笑い声が漏れた。電気の契約は二年前に切れている。澪が扉に手を伸ばすと、三崎が袖を掴んだ。室内へ呼ばれる形で踏み込めば、出口が同じ場所に残るとは限らない。
非常灯の反射を鏡で確かめ、扉の敷居へ糸を一本張った。糸は張った瞬間から、部屋の内側へ湿っていった。
管理人の話では、二か月前に配管工事があったという。水道管を換えた直後から、廊下で足音がするようになった。澪は交換箇所を図面に丸で囲んだ。
突然、三〇七号室の奥でガラス玉の弾む音がした。乾いた音だった。三崎は顔を上げたが、護符を構えなかった。
澪は粉の袋を閉じ、蓋をきつく締め直した。
空室の扉には郵便受けが付いていなかった。管理人によれば、改装の際に塞いだのだという。澪は廊下の他の扉を見渡した。どの部屋にも表札があり、暮らしの匂いがある。その一室だけ、名前を呼ぶための手がかりがなかった。
「壊れたのは、管だけじゃなさそうだな」
澪の靴に付いた白い粉は濡れていない。それなのに三崎の背後には、彼の靴ではない小さな影が一歩分だけ増えていた。




