窓の外の手
翌日の消灯後、久我千鶴は少年の病室の向かいで待機した。窓の外は七階の高さで、非常用の足場もない。看護師の説明では、歌が始まると少年は窓の方を見つめるという。
「そこに誰かいるの」と千鶴が尋ねると、少年は首を振った。「手だけ。窓を拭いてくれるの」。看護師がカーテンを閉じても、少年は怖がらなかった。
千鶴が窓に護符を近づけた途端、外側に五本の筋が浮かんだ。水滴ではない。指の形をした曇りが上から下へ動き、ひとつずつ消えていく。千鶴は術を放つのを止め、窓枠の古い塗装を調べた。
病棟は三十年前に増築されていた。窓の下には当時の外壁が残り、そこには『夜間巡回口』と小さく刻まれている。今の七階は、かつて屋上だった場所だ。
師長は古い職員名簿を探し、夜間に患者の窓を拭いて回った清掃員がいたことを思い出した。大雪の冬、勤務の途中で亡くなった女性だという。少年の病室の近くで働いていた記録も残る。
千鶴は病室の照明を暗くし、少年の眠りを妨げなかった。
窓の外を調べるため、高所作業車の使用も検討された。しかし病院の搬入口が狭く、患者の移送を妨げてしまう。千鶴は病室の中から測れる範囲を先に確かめ、無理な工事は求めなかった。夜間巡回口の古い文字を見つけたのも、その慎重な順番のおかげだった。
千鶴はその話をすぐ怪異の説明にしなかった。見えた手が女性のものだとは限らない。死者を都合よく善人にしてしまえば、別の危険を見落とす。
歌が止んだあと、窓の曇りには小さな星の形が描かれた。少年は笑って眠った。千鶴は翌朝まで、窓の外の気配が病室へ入らないことだけを確かめ続けた。




