呼ばれた側の記録
森崎が橋の声を聞いてから書いた手帳には、恐怖の描写がほとんどなかった。勤務時刻と交代相手、当日の水位、その日に眠れた時間が並んでいる。相良は休憩室で手帳を借り、本人が見せてもよいと言った頁だけを読んだ。
一か所に「返事をしたくなった」と書かれていた。声が誰か知っている人に似ていたわけではない。ただ、自分の名前を呼ばれると身体が振り向くという。森崎はそのことを怖がっていた。
森崎の手帳には、休みの日に娘と公園へ行ったことも書かれていた。相良が目を留めると、森崎は少し照れて頁を閉じた。仕事の記録に私生活が混じるのは嫌だという。相良はその頁を写さず、当番時間の書かれた部分だけ借りた。働く人には守るべき距離もある。
休憩室の時計は電池が切れており、森崎が新しいものに替えた。そこだけは誰でも正確な時刻を見られるようになった。
奈央は通信装置の設定を変え、名前を呼ばずに番号で連絡する試験を始めた。職員からは間違いが増えるという意見が出たため、相良は現場全員で試用してから判断することにした。
河原の漁具店の主人が持ってきたのは、昔の橋の完成写真だった。橋脚の横に立つ人々のうち一人だけ、顔の部分が白く抜けている。フィルムの傷なのか、人為的な加工なのか分からない。主人は「昔からこうだった」と答えた。
相良は写真を持ち帰らず、所有者の許可を得て複写した。写真館の記録と照らす仕事は井波へ頼み、現場班は工事に集中する。
帰り際、森崎は川の音を聞きながら「今日は返事をしなくて済みました」と笑った。相良はうなずき、手帳を返した。その笑顔を、報告書の成果欄へ数えようとは思わなかった。




