拍手のない夜
小劇場の公演が始まった。古川律は観客席ではなく、舞台袖の避難導線に立ち会うことになった。役者の衣装はすべて新しい糸で縫い直され、古い糸は資料館の協力を得て保存されている。
舞台の途中、照明が一度だけ弱くなった。電気主任がすぐ復旧を確認する。客は演出だと思ったのか静かに見守り、役者は動きを止めなかった。律は舞台袖の影を数えた。誰かがもう一人いるようにも見えたが、手を伸ばして確かめることはしなかった。
幕が下りると、客席から拍手が起きた。役者は喜び、衣装係は膝をついて布のほつれを確認した。舞台監督は次の公演までの修繕箇所を書き出している。芝居の成功は、人々が自分の役を果たした結果だった。
終演後、河名は近隣住民へ音の苦情がなかったか確かめた。小劇場が街に残るには、芝居を知らない人の暮らしも尊重する必要がある。裏口の近くで眠る人に迷惑が掛からぬよう、片付けの声を抑える合図が定められた。律はその配慮を聞き、館主の仕事を少し理解した。
館主の河名は、葛西から預かった台本を見せた。表紙の裏に、小さく「左の袖を上げる」と書かれている。昔の黒子の手順だろうと葛西は考えていた。律も否定しなかったが、それだけで一連の異常を説明できるとは言わなかった。
翌朝の掃除当番は、舞台の隅に落ちた糸くずを丁寧に拾った。拍手が終わっても、人の手はまだ要る。
その夜、劇場の片付けが終わると、空の客席から布のこすれる音がした。律は警戒札に触れず、館主と一緒に非常口の点検を続けた。
舞台袖に置かれた新しい衣装は、翌日の稽古に使われる。昔の糸は箱の中で静かに眠り、誰かの仕事を代わりに奪うことはなかった。




