ないはずの踊り場
築五十年の市営住宅で、階段の途中に踊り場が一つ増えると相談があった。管理会社から渡された図面を前に、篠原澪は首を傾げた。建物は四階建てで、踊り場の数は変わらない。なのに住人の何人かは、三階へ上がる途中に息を整える場所が増えたと話す。
現場で澪が数えると、段数は図面と合っていた。古川律が後ろから歩いてきても、余分な段は見つからない。しかし二階から買い物袋を持って上がってきた女性だけが、途中で見えない手すりに手を置いた。
管理人の机には住民からの修理依頼が束になっていた。水栓の故障、郵便受けの錆、階段灯の寿命。見えない踊り場の相談だけを特別扱いすると、別の不便が後回しになる。澪は同席を頼まれた会議で、怪異に関係しない修繕希望も最後まで聞いた。
女性は驚いていなかった。「ここで休むと楽なんですよ」。手すりのない空間へ寄りかかっても、身体が傾かない。澪が同じ場所に手を伸ばすと、冷たいコンクリート壁に触れた。女性は心配そうに澪を見た。
住宅の管理人は、かつて階段の中間に休憩用の長椅子があったと教えた。老朽化で撤去した後、代わりの椅子は予算がなく設置されなかった。住民の高齢化で、階段を上がる苦労は増えていた。
律は見えない踊り場を封じる提案を取り下げた。存在の確認と同じくらい、そこで人が転ばないかどうかが重要だった。管理会社は手すりの増設を調べることになった。
夕暮れ、澪は女性が三階の部屋へ帰るのを見届けた。女性は途中で一度休み、買い物袋を持ち直した。その場に何があるのかを、澪だけはまだ見ることができなかった。




