名前を書かない人
避難所の名簿で、深見は一か所だけ筆跡が違う欄を見つけた。名の欄に「山」と書かれ、住所は空白だった。自治体の職員は記載した覚えがなく、受付を担当した老人も首を傾げた。名前を伏せたい人がいる可能性はある。深見は無理に本人を探さないよう伝えた。
鷲尾は土砂崩れの発生地点を見に行き、道路脇の石碑が半分だけ埋まっているのを見つけた。古い遭難者慰霊碑で、町の職員は除雪のたび位置を確かめていたという。碑の裏へ回ると、雨で削れた面に細い名前が刻まれていた。
受付を手伝う高校生は、避難所の名簿を見知らぬ人へ渡してよいか迷っていた。深見は住所や氏名を外へ出さない理由を説明した。家族の安否を知らせるためにも、誰が情報を扱うか決めておく必要がある。高校生は受付の位置を移し、声が周囲に聞こえにくくした。
町史には、かつて雪崩で帰らなかった人がいたと記されている。救助に入った者の名前は残らず、人数だけが書かれていた。鷲尾は碑の文字を擦り取らず、写真で記録した。
体育館へ戻ると、給食職員が「山」と書かれた欄を囲っていた。食物アレルギーを持つ避難者には食事を分ける必要がある。身元が曖昧な人へ食事を出せない決まりではないが、所在の確認は要る。深見は自治体職員と、実在する避難者全員へ声を掛け直した。
三十七人の返答があり、一人分の席は空いたままだった。席の下には雪解けの水が一滴落ちていた。鷲尾が指で触れる前に、給食職員が雑巾で拭いた。
「ここは滑るんですよ」と彼女は言い、椅子を安全な位置へ移した。誰も座らない椅子にも、危険な置き方はあるのだった。




