来なかった生徒
区立第二中学校の黒板を拭く日、律は立ち会いの職員に写真を渡した。異常を確認した後も掲示物として残さない、という校長の判断だった。学校には今の生徒が学ぶ場所としての務めがある。夜間学級の記憶を大切にすることと、準備室を使えるようにすることは両立できる。
乾いた布で一度撫でると線は消えた。しかし右端の一本だけ、少し湿った跡になって残る。用務員が水漏れを疑い、壁の裏を調べたところ、窓の継ぎ目に長年の雨染みが見つかった。律は怪異の証拠と決める前に、建物の修理を優先した。
その日の夕方、藤倉から電話があった。「一人、来られなくなった人がいたんだ」。仕事先が閉鎖され、昼も夜も働き口を探していた友人だったという。名前を出すことには同意しなかったが、最後の授業の日、教師がその人の席を空けていたことを覚えていた。
律は湿った一本を思い出した。数えられなかった人数なのか、ただの水跡なのか。電話口で藤倉は、もう答えは要らないと付け加えた。「あの教室は、待ってくれる場所だったから」。
窓を直した職人は、壁の内部に何度も補修した跡があると報告した。雨の日に水が入るたび誰かが塞ぎ、その方法が時代によって違う。律は湿った線を見た日に降った雨の量も調べた。記録の上では小雨だったが、建物の傷は少しずつ積もった時間を示していた。
準備室には新しい棚が据えられ、理科教員が試薬のラベルを一つずつ貼った。用務員が窓の修理を終えると、雨は壁の内側へ入らなくなった。
始業前、黒板に書かれたのは実験器具の返却期限だった。律はそれを遠くから見て、鍵を校長に戻した。




