拾われなかった傘
夜間受付の井波が最初に気づいたのは、届け主が一度も傘を置かなかったことだった。電話の男は駅前の遺失物係で、改札外のベンチに濡れた紺色の傘があると話す。回収に行った係員には傘が見えず、監視カメラには、傘を避けて歩く人々が映っていた。
篠原澪は運行管理室で映像を見せてもらった。通行人の足が揃って半歩よける。ところがベンチの影は真っすぐだ。三崎が映像の時刻表示を指す。夜の零時をまたぐ三分間だけ、誰もベンチに座っていない。
管理室の奥には、終電を逃した人のために駅員が使う毛布が二枚あった。若槻は以前、足を痛めた旅行者へ貸したことがあると言った。澪は傘の調査と無関係に見えるその話を聞き、遺失物係にも夜を越す人の世話があるのだと知った。
「忘れ物の受付簿は?」
係員が持ってきたのは紙の台帳だった。二十年前の頁に、同じ場所で傘を失くしたという申告が十一件ある。傘の色も形もばらばらだが、届け主はいずれも「次の人に貸した」と書いていた。
澪は駅員に、目に見えない傘を探してほしいとは頼まなかった。ベンチを一時的に使えなくし、目の不自由な利用者が迷わないよう、点字ブロックから離した位置に案内係を置いてもらう。雨足が強まると人の流れは変わり、ベンチに向かう足音が一本増えた。
係員が傘立てを持って来た時、澪は初めて床の水滴を見つけた。水滴は二列あり、片方だけベンチの下で途切れる。三崎はそこへ封を置かず、濡れていない側に細い白墨の線を引いた。
「貸した相手が返さなかった、という話じゃなさそうですね」
澪の問いに三崎は頷く。「誰が雨に濡れる番だったのかを、確かめよう」。終電が出た駅舎では、清掃員が黙々と床を拭き始めていた。




