監査官の忘れ物
本部監査官の伊佐が東部支所を訪れた時、受付へ小さな茶色い手帳を置き忘れた。澪が追いかけようとすると、井波は中身を見ず封筒へ入れた。公務の記録ならばこそ、落とし物として正しい手順で扱う必要がある。
夕方、伊佐が戻ってきた。新しい報告様式が各支所で使われ始めたと聞き、現場の感想を尋ねに来たらしい。井波は便利になった点と、入力画面の文字が小さい点を伝えた。伊佐はその場で修正案を控えた。
澪は木戸の古い台帳について、監査上どこまで調べてよいか相談した。伊佐は個人情報の扱いを確認し、退職者から得た証言を公開資料に混ぜないよう助言した。紙を残すことと、誰もが読めるようにすることは別の仕事だ。
忘れ物の手帳を返すと、伊佐は少し赤くなって礼を言った。中には仕事の予定だけでなく、子供の習い事の送り迎えまで書いてあるという。澪はその話を聞いて、監査官も帰れば家の用事が待っているのだと知った。
伊佐は次の会議で、記録担当者にも休みを確保できる運用を提案すると約束した。急ぐ案件がない日まで、全員が遅くまで残る必要はない。
伊佐は受付の椅子に腰掛けた時、古い靴底が少し剥がれかけていることに気づいた。支所の床を傷つける前に修理しようと呟き、澪は近所の靴店を教えた。会議で厳しい質問をする監査官も、日々の暮らしでは小さな不具合へ対処している。井波は一枚の地図を渡し、来訪者用の案内にも使えると考えた。
帰り際、受付には若い職員が立っていた。伊佐は同じように名前を書き、手帳を鞄の内側へ仕舞った。小さな手続きを守る人が増えることを、井波は静かに喜んだ。




