↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
9/12

第八話 帳面と写本

 調査団は、荷馬車四台、騎馬六騎、総勢十九名でハルデンに入った。


 三週間半の旅路の間、レンス・ヴァリクは、到着の日の光景を幾通りも思い描いてきた。恐慌に閉ざされた町。逃散で空になった町。あるいは、異変を拝む狂騒の町。王都で「一夜で森が生えた土地」について考えれば、思い描ける絵はそのあたりが相場である。


 実際に一行を迎えたのは、坂の途中の呼び声だった。


「お役人さんがた、メロージェはどうかね、メロージェ。焼きが三つで銅貨一枚、粥なら椀に——」


 筵の上に焦げ茶色の木の実を並べた老婆が、隊列に向かって商いを仕掛けていた。護衛の伍長が困惑して馬を止め、隊列が詰まり、書記の一人が「メロージェ……?」と呟いて筵を二度見した。書記は王都の宴席で本物を見たことがある。ベルガナ産の、露に濡れた房なりの果実である。筵の上のそれは、どこからどう見ても、焦げ茶の固い殻の木の実だった。だが老婆の顔に嘘の色はなく、値札の板にも堂々とその名があり、書記は結局、何も言わずに馬を進めた。後ろから荷駄が「通せ、通せ」と怒鳴った。荷駄は板材を山と積んでいた。よく乾いた、目の詰んだ、上等の板材である。ヴァリクは荷駄が坂を下っていくのを目で追い、その視線の先——台地の縁の向こう、東の地平に、それを初めて見た。


 森が、あった。


 報告書の通りだった。地平の右から左まで。だが報告書は、その手前を教えてくれていなかった。崖下には柵に囲われた小さな集落が煙を上げ、柵の外にも真新しい掘っ立てが二つ三つ、行儀悪くはみ出している。崖には巻き上げ機の櫓が立ち、綱の先で丸太が一本、ゆっくりと宙を登っていた。森との間の草原には荷を担いだ人の列が点々と続き、遥か南東の水面のきわには、燻しの煙が——一筋ではない。三筋、四筋、束になって、のどかに立ち上っている。


 坂を下ってきた荷駄の男が、隊列に道を譲りながら、連れと何やら言い交わした。訛りが違う、とヴァリクの耳が拾った。この三週間、ミュレ谷を遡りながら聞いてきた、下流の村々の訛りである。すれ違いざま、男たちの背負子から魚の匂いがした。塩と煙の、燻し魚の匂い。王都から三週間半の山の上で、ヴァリクが最後に予想した匂いだった。


 災害の地に来たはずだった。あるのは、産業だった。


「……ローデン先生」


「うむ」


「儂らは、何をしに来たんでしたかな」


「測りに、だ」老学者は、鞍の上で目を細めていた。「幸い、測るものは、報せの十倍あるようだがな」


---


 協議は、翌日から監督府の広間で始まり、都合五日を要した。


 初日、モレン伯は挨拶もそこそこに、綴じた帳簿を五冊、卓の上に積んだ。伐採の帳、普請の帳、漁の帳、賃金の帳、売買の帳。日付、目方、員数、金額。調査団の書記が最初の一冊を検め始め、頁を繰る手が次第に速くなり、しまいに顔を上げて、隣の同僚と目を見交わした。辺境の質入れ領に来て、王都の出納院並みの帳簿を出される——それが何を意味するか、役人には役人の読み方がある。この町は、こちらが来ることを、ずっと待ち構えていたのだ。


 協議の大半は、退屈で、有益だった。ハルデン側が出したものは二系統——ヴェルナー老の観測手帳の写しと、開発の帳簿一式。調査団側が出したものは、王都の獣害の正式な顛末と、聴取会の見立てである。互いの持ち札が卓に並ぶにつれ、双方の頭の中で、別々だった二枚の絵が一枚に貼り合わさっていった。


 帳簿を検めた書記が一つ、注釈を付けた。漁の帳の後ろのほうで、樽、という字が急に増えている。燻し魚の樽である。売り先の欄には、これまでの「町内」「下町」に混ざって、先月あたりから「クローセン」「オルベ」の名が現れ始めていた。賃金の帳の人名も、後ろへ行くほど増えていた。増えた名の幾つかには、村の名が添えてある。ヴィントのミロ、オルベの誰それ。書記は「人別の把握はどのように」と問い、参事会は「柵の内は夜警が名を取っとる。外は……まだ、追いついとらん」と答えた。追いついとらん、という言い方に、役人たちは目を見交わした。数字が伸びている帳簿の持ち主だけが使う言い方である。


 貼り合わせの糊は、日付だった。


「——森が生えて、三日か四日の後、と」


「へえ。検分の山羊が実を食うた翌る日ですわ。ああ、山羊の日なら帳面に……ほれ、ここに。この二日後で」


「西へ。山なみの上を」


「音もなく、すうっと。でかい鳶だと言う者もおりましたが、鳶はあの飛び方はせんです」


 参事会の親方衆は、問われるままに、こともなげに答えた。皆見とります、と。断崖からも、谷の道からも、囲いの脇からも。役人が日数を指折り数え、書記が街道の目撃の札——水車村の「刈り入れの支度の頃」、宿場の「羊の騒いだ日」——を並べ、最後にセルネの丘の日付を置くと、数は、綺麗に繋がった。


 広間は、静かだった。役人たちにとって、それは百九十人の死の出所が確定した瞬間である。ハルデン側にとっては、前から皆で言うとった通りやったな、の瞬間である。同じ卓で同じ答えに辿り着いた両者の顔つきは、それほどまでに違っていた。


 ヴァリクは末席で、手元の紙に、線を一本引いた。老尚書が「引かん」と言った線である。誰の足も歩いていなかった二点の間は、結局、砲兵の靴でも学者の靴でもなく、山羊の日付と羊の騒ぎと、こともなげな世間話とで埋まった。


 協議で波が立ったのは、二度だけである。


 一度目は、漁の帳の「塩」の行だった。若い書記が目を止め、「この塩の仕入れ元は」と問うた。広間の空気が、目に見えぬ程度に、締まった。モレン伯は帳簿から顔も上げずに答えた。


「塩は、塩だ」


「は。いえ、仕入れ元の記載が」


「書いてある通りに読みなされ。目方と値は書いてある。……時に書記どの、王都では、燻し魚に使うた塩の素性まで帳に載せる決まりかね。それは知らなんだ。次からそうしよう。決まりの写しを、後で頂けるかな」


 決まりは、むろん、無い。若い書記は上役の顔を窺い、上役は咳払いをし、塩の行は捲られた。


 二度目は、鱗の話が出たときである。調査団側が獣害の詳細を語る中で、砲が熔け、石が熔けた、というくだりに至ると、参事会の末席から精錬組合の炉番の老職人が、たまらず身を乗り出した。


「お役人様。そりゃあ、まことで。石が、外で、熔けたと」


「まことだ。儂がこの目で見た」とローデン老が引き取った。「花崗岩が飴のように流れて固まっておる。王国のどの炉も届かん温度が、野天で出た。……ときに親方、この町の炉は何度まで——」


 この一問がきっかけで、炉番と老学者は協議そっちのけで温度と燃えの談義に入り、司会の役人が二度、咳払いをする羽目になった。


---


 だが、この五日間の本当の収穫は、広間ではなく、夜の試金学校で生まれていた。


 初日の晩、ローデン老は監督府の客室に落ち着くなり、随行に断りも入れず、手帳の主に会いに出かけた。ヴェルナー老の私塾——元試金学校の、鉱石標本と測量具の埃に埋もれた一室で、二人の老人は、初対面の挨拶を三十秒で済ませ、以後、互いの帳面の検分に入った。


 最初の半刻は、はっきり言って、剣呑だった。


「……この樹高の値は、どう測った」


「儂の脚と、儂の真鍮筒と、三角の理屈でよ」


「器差は。筒の刻みの検定は、いつ誰が」


「五十年前に儂が。以来、儂の目と一緒に古びとる。……そちらの帳面こそ、この『獣の推定重量』とやら、いったい何を測って出した数字かね。目方は、吊るして初めて目方だろうが」


「吊るせんものは骨格と翼面から推す。推した、と書いてある。断じた、とは書いておらん」


「ふん。……まあ、そこは、書き分けとるな」


「そちらもな。『一度見た者の言に過ぎず』——この一行がある帳面なら、話は早い」


 剣呑は、そこまでだった。夜半を過ぎる頃には、二人は互いの帳面を交換して黙々と読み耽り、時折「ここは」「それはな」と短いやりとりを挟むだけの、傍目には五十年来の同輩のような按配になっていた。付き合いで同席していたヴァリクが暇を持て余し始めた頃、ローデン老が、湖の頁で手を止めた。


「……ヴェルナー殿。この湖、水は、増えておらんのか」


「増えておらんように、見える。が、測っておらん。目測は観測に入れん主義でな」


「川が入らず、雨が乏しく、夏の日照りで、減りもせんと」


「減っておらんように、見える。……測ってはおらん、と言うとる」


「では、測ろう」


 ローデン老は、自分の帳面の新しい頁を開いた。


「水位標を打つ。岸に三本、材と人手はこの町に頼めよう。読みは朝夕の二度、加工場の番が読める仕組みにする。……それから、鳥だ。実の生る鳥の件、あの伐り子の証言、儂は買う。目撃の条件を揃えて張り込む。それから狼、あれの頭数の変動。それから小魚の群れの規模、これは舟から数える段取りを——」


「待て待て。いっぺんに始めるな。人手も器械も無いのだぞ、こっちは」


「無ければ作る。人手はな、ヴェルナー殿、今この台地の上に、王都で一番よく仕込まれた『目』が来ておる」


 老学者は、部屋の隅で舟を漕ぎかけていたヴァリクを、顎で示した。


「距離と高さを測ることにかけて、砲兵の右に出る者はない。——ヴァリク、明日から森だ。基線を張って、あの森の、まず外縁の図を引く。文句は」


「……ありません」


 文句は、本当になかった。ヴァリクは王都を発って以来、初めて、自分の職分がはっきりと役に立つ場所に呼ばれたのである。溶けた石は、何度測っても何も答えなかった。あの森は——少なくとも、測れば図になる。図になるものは、答える。


 かくして、後に「ハルデン観測台」と呼ばれることになる雑多な共同事業は、この夜、埃だらけの私塾で、老人二人の帳面の間に生まれた。水位標。定点の見張り。図引き。数取り。どれも地味で、どれも時間を食う。積み上げる側の人間たちは、積み上げる支度を始めた。


---


 同じ五日の間、もう一人の随行者は、また別の帳面を検めていた。


 ファルクという。大灯座から調査団に付けられた司祭で、齢は三十半ば。物腰は柔らかく、口数は少なく、広間の協議では隅の席で書き付けを取るばかりの男である。役人たちは彼を「教会の目付」と見て当たらず障らず、ハルデンの側は「お若い司祭様」と見て粥を勧めた。どちらも、半分しか当たっていない。ファルクの前職は、大灯座の書庫方——それも、異端文書の審査室である。異端を退けるには、まず異端を読まねばならない。ファルクは十年、退けるために読む仕事をしてきた。誰よりも多く、誰にも語れない書物を読んできた男だった。


 その男が、灯堂で、漁師たちの証言を聴いた。


 場を設えたのは老司祭である。王都の司祭様が湖の一件を知りたがっておられる、と声を掛けられ、テオとペルとミロは、仕事上がりに灯堂へ出向いた。証言は、もう何十度も語って磨かれた形になっていたが、ファルクは急がせず、順を追わせ、時折、妙に細かいことを訊いた。


「——星は。見知った星座は、ありましたか」


「いや……それが、司祭様。多すぎて、探せんかったです。星と星の間まで星がある、っちゅうか」


「月は。形は」


「望の月で。真ん丸の。……ばかにでかくて、白うて」


「傘の周りの、五つの灯り。それは、泡でしたか、灯りでしたか」


「近くで見りゃ泡でした。遠目にゃ、灯籠が浮いとるようで」


「触れた者は」


「おれっす」とミロが手を挙げた。「一昼夜寝て、腹が減って、起きました。いい夢を見てた気がするんすけど、思い出せんのです。……あ、司祭様、あれって罰当たりですかね、おれ」


「——いいえ」


 ファルクは、少し間を置いてから、静かに言った。


「罰なら、目が覚めますまい」


 ミロは安心して帰り、テオとペルも帰り、老司祭は常火の灯りを検めに行き、ファルクは一人、灯堂の長椅子に残った。


 書き付けの紙面には、聴き取った通りの言葉が並んでいる。昼が夜に。数え切れぬ星。望の月。星の透ける傘。五つの灯り。眠らせて、還す。


 ファルクは、その紙面を、長いこと見下ろしていた。


 思い出そうとしていたのでは、ない。思い出すまいと、していたのだ。灯堂で証言を聴いている最中から、記憶の底で、何かが頁を繰る音を立てていた。埃の匂いのする音だった。大灯座の地下、審査室の、鉄格子の嵌った書棚の匂い。二十代の終わりに、退けるために読んだ、数多の写本のうちの一冊。


 『イェルデの書』。


 二百年前に異端と断ぜられた、さして名の知られぬ文書である。断罪の理由は本文の別の箇所——灯し手の唯一性に触れる記述——にあり、審査記録でも、問題とされたのはその数葉だけだった。だが読んだ者は、読んだ全部を覚えてしまうことがある。ファルクが覚えてしまったのは、断罪と関わりのない、序章の数行だった。原初の闇について、イェルデはこう書いていた。


 ——最初の火より前、闇は(むな)しくはあらざりき。闇には月ありて、月の下を、まどろむものが渡りゆけり。


 ——灯し手の火の点りしとき、諸々の闇は退きしが、まどろむものは退かず、抗わず、ただ渡りゆくを止めざりき。


 ——それは火を消しに来たらず。火に焼かれもせず。それの渡るところ、あまたの小さき灯りが従い、灯りに触れしものは、痛みなく眠りて、眠りのままに還さるる。


 ——これを善しと呼ぶべきか、悪しと呼ぶべきかを、我は知らず。我の知るは唯一つ、それが我らより古い、ということのみ。


 審査室で初めて読んだとき、若いファルクはこの数行を「詩人の世迷い言」の欄に分類した。異端ですらない。判じようのない、ただの奇妙な数行。審査官として正しい処理だったと、今も思う。今も思うが——


 昼が夜に。月。従う小さき灯り。触れて、痛みなく眠り、還される。


 一致が、多すぎた。


 ファルクは書き付けを畳み、立ち上がり、常火の前を通って(習いの通り一礼して)、宿所へ戻った。その晩、彼は客室の卓に紙を広げ、西へ送る封書を三度書き、三度破いた。


 一度目は、詳しすぎた。異端文書の内容を、写しの無い場所で記憶から綴るのは、審査方の禁を破る。


 二度目は、曖昧すぎた。「東方の異変につき異端文書の照会を乞う」——これでは書庫の誰も、どの棚に手を伸ばせばよいか分からない。


 三度目に、ファルクはようやく、審査方の書式が許す精一杯の一行に辿り着いた。


 ——大灯座書庫方御中。『イェルデの書』写本一巻、審査官の資格において閲覧を請う。事由:東方異変に関わる照合。至急。


 封蝋を捺してから、ファルクは蝋燭を吹き消し、闇の中にしばらく座っていた。


 闇の中で考えるのは、審査方の悪い癖である。灯りの下では、書かれたものの形しか見えない。書かれなかったものの形は、闇の中でしか見えない——そう教えた老審査官は、もう鬼籍にある。


 イェルデは、あれを善とも悪とも呼ばなかった。呼べなかったのだ、と今のファルクには分かる。二百年前の異端者と、目の下に隈をつくった辺境の老司祭が、二百年を隔てて、同じ場所で立ち止まっている。善と呼ぶ言葉も、悪と呼ぶ言葉も、まだ持っておらん——。


 そして自分は明日から、その「呼びようのないもの」から半日の距離で、寝起きするのである。


 ファルクは闇の中で立ち上がり、手探りで火口箱を探し、蝋燭に、もう一度火を点した。


 分からんものの前でこそ、灯りは灯すものだ——あの老司祭の言い方は、存外、教義のどの一行より正確なのかもしれなかった。


 封書は翌朝、王都へ発つ急ぎの便に載った。返書が来るのは、早くて、ふた月の先である。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。