第九話 樽と灯り
夜明けの湖岸は、もう、静かではない。
一番舟が霧の手前——正確には、霧よりずっと手前、決まりの浮きより内——で網を打つ頃、岸では竈に火が入り、塩汲みの列が動き出す。二番目の網が上がる頃には、燻し棚の一段目が埋まる。テオはこの頃には帳面を持って桟橋(と呼ばれている、杭に板を渡しただけのもの)に立ち、籠の数を数えている。数える係、というのが、いつの間にかテオの仕事になっていた。「行ったことのある男」は、数えられる男に出世したのである。
数えるものは、増える一方だった。
舟は二艘になった。ホルテの妹分は、初め「ホルテの妹」と呼ばれ、そのうち「ピルケ」に落ち着いた。鴨の雛のことである。親より一回り小さい二号にはよく似合った名で、命名はむろん、網の女たちの多数決だった。網は六帖。燻し棚は三列。人手は、湖岸だけで常時十五人。うち五人は、下流の訛りで喋る。オルベの水車番の三男、ヴィントの小作の次男坊——枯れた谷筋には、次男三男の行き場がない。板と魚樽が下る道を、身一つの若い衆が遡ってくる。ミロは今や「先輩」であり、新入りに燻しの火加減を教えながら、覚えたての説教を垂れている。「いいか、霧にだけは近寄るな。おれは一日寝た」。武勇伝と訓戒の区別は、十七の口では、つかない。
売り物も、増えた。
燻し魚の樽は、週に一度、荷駄に載ってクローセンへ下る。最初の樽が下った日、荷駄宿でどんな顔をされるか、送り出した側は賭けをしていたそうだが、答えは翌週、倍の注文になって帰ってきた。売れ残りと屑は、干して、砕いて、俵に詰める。魚肥である。痩せた谷筋の畑にとって、これは魚より高く売れる、と気づいたのは羊毛組合の親方だった(「肥やしは腐っても文句が来ん」)。そして、煮汁の上に浮く脂——これを掬い集めて灯りに使えると言い出したのは、ほかならぬ木の実の婆様である。
魚油の灯りは、煤が多く、少し魚臭い。だが、安い。台地の上では、油は上げ賃込みの贅沢品で、庶民は日没とともに寝るのが習いだった。その町の窓に、ぽつり、ぽつりと、宵の灯りが増え始めている。酒場は看板の下に灯りを吊るし、女たちは灯りの下で網を繕い、灯堂の献灯にまで(司祭は素性を問わなかった)魚油の小皿が混ざるようになった。
夜が、延びたのである。地平に森が生えて、半年足らずのことだった。
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その繁盛の岸に、このところ毎日、司祭がいる。
王都から来た、お若いほうの司祭様である。朝、観測台の連中が水位標を読みに下りるのに同行してきて、日がな一日、岸の北寄りの、少し高くなった草地に座っている。書き付けを膝に載せ、時折何か記し、あとはただ、沖を——沖の、動かない霧を——眺めている。
事の起こりは、十日ほど前に遡る。
ファルク司祭は、ある晩、燻し場の火の始末をしていたヨスト爺のところへ来て、前置きも飾りもなしに、こう頼んだのである。
「霧の内へ、船を出していただきたい」
ヨスト爺は、火掻き棒を持ったまま、長いこと司祭の顔を見た。それから言った。
「……司祭様。あんた、泳げるかね」
「泳げません」
「正直なこった。じゃあ、駄目だ」
「泳ぎの要らぬよう、舟を頑丈に——」
「そういう話じゃあ、ない」爺は火掻き棒を置いた。「司祭様。儂はこの歳まで、知らん水には入らんできた。知らんから、入らんのだ。あんたら学のある衆は、知らんから確かめる、と言いなさる。儂ら水で食ってきた者は、逆さまでな。確かめにいった奴の骨は、儂は三人ぶん拾っとる。……あの霧が何か、あんた、知っとるのかね」
ファルクは、答えなかった。答えられなかった、というのが正しい。知っているかもしれない、とは、審査方の禁が許す限り、口にできる言葉ではなかった。
答えない司祭を、爺はしばらく眺め、それから、話は済んだという顔で火の始末に戻った。
だが、話は済まなかった。司祭が霧に入りたがっている——この噂は、翌日には湖岸を巡り、翌々日には下町を巡り、三日目には台地の酒場の肴になっていた。反応は、綺麗に三通りに割れた。
止めるべきだ、という者。何かあれば町の名折れである、王都のお偉方に町の決まりも説かねばならぬ、だいたい御坊様というのは世間を知らなさすぎる——。
勝手にすればいい、という者。ミロは一日寝て粥を三杯食って戻った、死にはせん、大の大人が行くと言うなら止める筋はない、儂らは漁で忙しい——。
そして、面白がる者。これが一番多かった。御坊様が眠ったら、夢の話を聞けるのは灯堂か、賭けるか、寝てる間の説教は誰がやる、いっそ婆様も一緒に行って向こうで店を開けば——。
誰も、司祭を軽んじてはいなかった。ただ、誰の物差しにも「教会の一大事」という目盛りが無かっただけである。この町にとって、霧の向こうは半年かけて付き合い方の定まった場所だ。近寄らなければ、何も起きない。それは半年、毎日の漁が証してきた。触れればどうなるかは——一度きりの例なら、ある。ミロは眠って、還ってきた。だが一度は一度である。次も還るとは、誰も言い切らないし、言い切る気もない。要は、確かめる用のない場所なのだ。近寄らないことは、こんなにも容易いのだから。
その容易い分別を、王都の司祭様だけが、なぜあんなに思い詰めた顔で越えたがるのか——それが町には分からず、分からないことが、面白かった。
テオは一度だけ、桟橋で司祭に訊かれたことがある。あの晩のことを、もう一度だけ聞かせてほしい、と。語り終えたテオに、司祭は「ありがとう」と言い、それから、独り言のように付け加えた。
「……羨ましい、と言うては、語弊がありますが。あなたがたは、見たのですね」
「見ました。……司祭様も、見たいんですか」
「見ねばならぬのです」
見たい、ではなく、見ねばならぬ。テオはその言い方を、なんとなく、ずっと覚えている。
騒ぎに片を付けたのは、例によってモレン伯だった。参事会の席で、伯はファルクを呼び、慇懃に、そして身も蓋もなく言った。
「司祭様。あなたを止める筋は、わしには無い。教会の御用を、俗人の決まりで縛る権など、この老骨は持ち合わせん。——ただし」
伯は、帳簿を指で叩いた。
「町の舟は、漁の道具だ。漁以外には出さん。櫂の一本も、だ。それから、町の決まりで、霧に船を入れた者は漁から外すことになっとる。司祭様、あなたは漁師ではないから、この決まりはあなたに届かん。だが、あなたを乗せて漕ぐ者には、届く。……漁は今、この町で一番いい稼ぎでな。それを棒に振ってまで漕ぐ物好きが、おるかどうか」
防波堤としては、それで足りた。司祭は縛れない。だが司祭を運ぶ足は、みな町の帳簿に載っている。ファルクは一礼して引き下がり、以来、岸の草地に座っている。
もっとも、酒場では早くも、別の勘定が始まっていた。曰く——漁を外されて構わん奴なら、漕げるのではないか。たとえば、下流から来たばかりで、まだ漁に入っとらん若いのなら。たとえば、日当を三月分、いや半年分積まれたなら。
相場は夜ごとに上がった。上がる割に、買い手は現れなかった。決まりが怖いのではない。決まりで測れる話なら、とっくに値が付いている。皆が値を付けかねているのは、その先である。あれの傍まで漕ぎ寄せて、次も何も起きない保証を、誰がしてくれるのか。ミロは還った。だがミロを還したのが何の気まぐれかは、誰も知らない。相手は、どう考えても、人間の決まりの外の——酒場の誰かの言い方を借りれば「あれはもう、神様の側の何か」である。神様の側の何かの機嫌を、日当いくらなら突きに行けるか。夜ごとの相場は、つまるところ、その品定めだった。今のところ、値は付いていない。今のところ、である。
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ファルクの岸通いは、彼が思ってもみなかった副産物を生んでいた。
毎日そこに座っている者は、風景になる。風景になった者には、人が寄ってくる。加工場の連中は、初めは遠巻きに、次には燻し損じの魚を持って、司祭の草地へ来るようになった。焦げたのは売り物にならんので、と言い訳をしながら。ファルクは礼を言って食い(存外にうまかった)、食えば話になり、話は、聴き取りになった。
霧の立つ日と立たない日。立つ刻限。ミロの眠った日の風の向き。夢を見た気がする、という言い方を、ミロが実際にはどう言ったか。ファルクの書き付けは、岸で日ごとに厚くなった。審査方の仕事は読むことだと思ってきたが、書かれていないものを調べるには、聞くしかない。聞けば聞くほど、証言は写本の数行に寄り添い、寄り添うほどに、ファルクは自分が何を確かめたがっているのか分からなくなった。一致していてほしいのか。違っていてほしいのか。
夕刻、引き上げ支度の岸で、燻しの煙と魚油の匂いの向こうに、霧はいつも通り、動かずに、ある。
その手前で、人は網を繕い、樽を数え、新入りが叱られ、賄いの鍋が湯気を立てる。ファルクは書き付けを閉じ、毎日同じことを思う。イェルデよ、と。あなたの「まどろむもの」の膝元で、人は、こんなにも屈託なく、栄えている。これを、あなたなら、何と書いたか。
返書は、まだ、ひと月半、来ない。
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観客席・その七
わが湖岸経済、ついに輸出産業に育ちました。
燻し魚の樽が週一でクローセンに下ってる。肥料も売れてる。ついでに魚油で台地の夜に灯りが増えた。見てくださいよ、あの宵の口の窓明かり。俺の盤面、町の照明インフラまで担当し始めた。親孝行(鯛)が外貨を稼ぎ、婆様が油の商いを発明し、下流から若いのがどんどん遡ってくる。プレイヤー不在の盤面で経済圏が育つの、シミュレーションゲームの放置プレイで文明が進んでるときの気持ちに近い。俺は何もしてないのに(いつものことだけど)。
で、今日の観察日記の主役は、王都から来た若い司祭さんです。
あの人、毎日岸に座って霧を見てるんですよ。毎日。雨の日も。
最初は「敬虔だなあ」くらいに思ってたんだけど、違うなあれは。あの目は知ってる。発売日にフラゲ情報が出回ってるのに、公式発表を待ってる奴の目だ。何かと突き合わせたくて仕方ないのに、突き合わせる相手が手元に無い目。……何と突き合わせたいんだろうな。俺には皆目分からん。うちの海月、王都で有名なのか? 二十円だぞ?
しかも船の交渉して、爺さんに断られて、伯爵に外堀埋められて、それでも通ってきてるからね。彼の中では何かがよっぽど重大らしい。町の連中は「なんであの御坊様だけあんなに真剣なんだ」って首を捻ってて、俺も一緒に捻ってる。観客席の解説者が解説できない案件、久しぶりだよ。
ここだけの話、行かせてあげたい気持ちは、ある。
だってさ、冷静に考えてほしいんだけど、うちの魔境の物件で、唯一「入って出てきた実績」があるのが、あの霧なんだよ。死者ゼロ、後遺症ゼロ、感想「いい夢だった気がする」。町の人らは「次も無事とは限らん」って言ってて、それは人間の分別として満点なんだけど——限るんだよなあ、ルール的には。攻撃力ゼロは、何回触ってもゼロなので。観光ツアーの行き先として、実はぶっちぎりで安全なの。一方、観測台の皆さんがこれから時間かけて挑もうとしてる森の奥は、実績ゼロの完全新規マップ。慎重な人たちが危ない方へ、思い詰めた人が安全な方へ向かってるの、誰も気づいてないんだよな。まあ、俺の胸にしまっておくけど。しまっておく以外の選択肢が無いんだけど。
あ、それと観測台の進捗ね。水位標、立ちました。岸に三本。朝と夕方に加工場の当番が読んで帳面に付けてる。砲兵さんは森の縁で毎日測量。あの人の図、遠目に見ても綺麗でさ、俺の森が初めて「地図」になっていくの、親としては卒業式みたいな気分がある。
順調だよ、何もかも。
順調すぎて、あれだ、そろそろ俺の出番——じゃなかった、次のガチャが怖いんだよな。カタン、カタン。……今夜も鳴いてます。




