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第十話 行列と虹

 発見というものは、たいてい、帳面の中で起きる。


 その発見も、そうだった。見つけたのはローデン老で、見つかった場所は、ファルク司祭の書き付けの中である。


 司祭の書き付けは、几帳面だった。審査方の十年は、読んだものを日付と共に記録する十年でもある。岸の草地の、いつも同じ石に座り、灯堂の刻の数え方で時を取り、霧の見える方角を、山の頂と断崖の縁を目印にして書き留める。立った日、立たなかった日。濃い日、薄い日。それを二月分。


 観測台の帳面を検分するついでに(というのは口実で、単に読むものなら何でも読む老人なのだが)ローデン老はこの書き付けを借り、一晩読んで、翌朝、司祭のところへ来て言った。


「司祭どの。霧は、消えておらんぞ」


「……は」


「あんたの方角の記録、二月分を並べるとな、霧の立つ方角が、日ごとに少しずつ動いておる。右へ寄り、寄り切ると数日見えず、しばらくして左の端から現れる。……つまりだ。霧は、現れたり消えたりしておるのではない。湖の上を、ゆっくり、回っておるのだ。見えん日は、消えた日ではない。岸から見えぬほど遠くを回っておる日だ」


 ファルクは、自分の書き付けを、初めて見るもののように見た。二月、毎日書いてきた紙である。書いた本人には、日々の切れ端だった。並べて読んだ他人には、円を描く軌跡だった。


「回って……何を、しているのでしょう」


「知らん。渡り鳥は回る。羊も回る。回るのは、生き物の癖のうちでは、ありふれた方だ。——ありふれておらんのは」老人は、沖を顎で示した。「回っとる道筋を、誰も知らんことだ。あの霧が湖のどこを通るのか、対岸のどのあたりで折り返すのか、誰も見たことがない。何せ、誰も対岸に行ったことがないのでな」


 老人の目が、良くない光り方をしているのを、ファルクは見た。学芸院で四十九年、地図の空白に泣いてきた男の目である。


「——回るか、司祭どの。湖を、ぐるりと」


---


 湖の外周探索の話がヴァリクの耳に届いたのは、その翌々日、森の縁の測量小屋でである。


 ヴァリクの側の仕事は、はかばかしくなかった。外縁の図引きは順調に進んでいる。進んでいないのは、その先——森の内への踏査の段取りである。


 難所は、狼だった。正確には、狼について何も決められないことだった。オルドの言い分は一貫している。伐採場の連中が無事なのは、伐採場の連中の振る舞いを、狼が見慣れとるからだ。見慣れん人数が、見慣れん荷物を担いで、見慣れん奥へ入る——それを狼がどう受け取るか、儂には請け合えん。請け合えんことを請け合う羊飼いは、いない。


 ならば少人数で、と言えば護衛の伍長が首を振り、ならば護衛を厚く、と言えばオルドが首を振る。段取りは三週間、同じ場所を回っていた。回る、といえば——


「——湖の霧が、回っとるそうだ」


 昼飯を運んできたテオが、下町の噂と一緒にその報せを持ってきた。ローデン先生が外周を歩くと言い出して、参事会に人手と口利きを頼んでいる。歩くだけで地図が埋まる、危ない水には近寄らん、野営は三晩、と。


 ヴァリクは、握り飯を持ったまま、しばらく考えた。


 森は、詰まっている。詰まっている間、測量の目は遊んでいる。湖の外周およそ十二里——基線を継ぎながら歩けば、帰る頃には湖の全図が引ける。地図の空白がひとつ、まるごと埋まる。そして森の段取りは、どうせ自分が悩んでも進まない。悩んで進む類の詰まり方を、していない。


 その晩、ヴァリクは監督府でローデン老に合流を申し出て、老人は「そのつもりで人数に入れてある」と当然の顔で言った。


 隊は七人に決まった。ローデン老、ヴァリク、ファルク(同行を願い出て、誰も断る理由を思いつかなかった)、道案内と数取りにテオ、護衛が二人、荷駄持ちが一人。ミロは行きたがって、燻し棚の当番表を盾に断られ、三日ふてくされた。


 出立の朝、ヨスト爺だけが桟橋まで見送りに来て、餞別の代わりに一言だけ寄越した。


「岸を歩くぶんには、儂は何も言わん。……ただな、夜だ。夜は、水から離れて寝ろ。理屈は無い。川漁師の年寄りの、理屈の無い言い分だ」


 理屈の無い言い分ほど、よく守られるものはない。一行は三晩とも、水から二百歩離れて野営することになる。


---


 外周の三日半は、後にヴァリクが「歩いた距離より、書いた墨のほうが多い」と評した行程になった。


 最初の異変は、初日の夕方に来た。南岸に回り込んだあたりの浅瀬で、葦の丈が、おかしくなった。人の背を越え、槍の丈を越え、しまいには小屋の棟ほどの葦が、密生して岸を塞いでいた。葦だけではない。水草も、岸の灌木も、その一角だけ、何もかもが濃く、太く、青すぎた。まるでそこだけ、土が違うかのように——あるいは、土に注がれるものが違うかのように。一行は繁茂の帯を大きく迂回し、ヴァリクは図面のその区画に「植生異常。幅およそ四百歩」とだけ書いた。書ける言葉が、それしかなかった。


 初日の夜には、水が光った。


 野営の火を落とした後、見張りに立った護衛が皆を起こした。岸から百歩ほどの水中を、青白い光の帯が、ゆっくりと流れていた。魚である。魚の形の光が、何百と連なって、水の中を渡っていく。誰も声を出さず、光の帯が沖へ遠ざかるまで、七人は並んで見ていた。ファルクの書き付けには、その晩の行だけ、文字の代わりに線が一本引いてある。書きかけて、やめた線である。


 二日目には、木を見た。


 対岸に近い沖合に、一本、大木が立っていた。岸から、ではない。水の中から、である。島も洲も無い、ただの水面から、樫に似た大樹が一本、当たり前の顔で生えて、梢に鳥を止まらせていた。ローデン老は遠眼鏡で根元を長いこと検分し、「浮いてはおらん。生えておる」とだけ言って、それ以上は何も言わなかった。言えることが無いときに黙れるのは、老人の徳である。


 ほかにも、あった。脚の異様に長い白い鳥が、沈みもせずに水面を歩いて魚を啄んでいた。沖の一点にだけ、雲も無いのに細い雨の柱が立って、立ったまま動かなかった。どれも遠く、どれも静かで、どれも、こちらに何の関心も払わなかった。三日目の朝にはテオが「また何か居る」と言い、誰も遠眼鏡を取らなかった。慣れというものは、三日で人を作り替える。


 だが、三日目の昼のそれは、慣れの外にあった。


 対岸——出発点のちょうど裏に当たる北東の岸で、先を歩いていたテオが、立ち止まった。


「……先生。あれ」


 湾になった静かな水面に、銀の帯が回っていた。見慣れた、小魚の帯である。見慣れているからこそ、その中心にいるものから、目が離せなかった。


 牛ほどの背が、ゆっくりと、水を押し分けていた。


「——主だ」誰かが言い、テオが首を振った。


「違う。主は、うちの岸のもんです。ここまで半日はある。それに……」


 それに、主の背には、古い網の擦れ跡がある(初漁の折の、ヨスト爺の三打ち目の勲章である)。この背には、無い。つやつやと、傷ひとつ、無い。


「……もう一頭、おる」


 テオの声は、自分の言葉に自分で驚いている声だった。一行は湾を見下ろす丘に伏せ、半刻、それを観察した。何もかもが、向こう岸の主と同じだった。悠然と巡り、小魚の衣を従え、時折、群れに何かを分け与えるように身を震わせる。ヴァリクは図面に位置を落とし、ローデン老は頭数の欄に「二」と書き、書いてから、その数字を長いこと眺めた。


 一が二になる。それだけのことである。それだけのことが、どれほど多くの問いを連れてくるか——番いか。親子か。同じものが、二つあるのか。二で終わるのか。老人の沈黙の中身を、ヴァリクは問わなかった。自分の中身と、同じだったからである。


 ファルクは、丘の上で、一人だけ別のものを数えていた。従える者が、二人——いや、二柱? 二頭? 数え方の言葉すら定まらない。牧者は一人であるからこそ牧者なのだ、と説くのが教義である。では、二人いる牧者は、何なのか。書き付けの上で、筆が、また止まった。


---


 虹に会ったのは、最終日の朝である。


 北岸を西へ、出発点まであと半日という岸辺で、それは、いた。


 最初に見つけたのは、またもテオだった。もっとも、見つけた、というほどのことでもない。隠れていなかったからである。朝日の当たる浅瀬の上、水面から人の背丈ほどの高さに、それは、浮いていた。


 玉、としか言いようがなかった。人の頭より一回り大きい、丸い、光の玉。虹色、と言えば聞こえはいいが、見ている間にも色は絶え間なく流れ、朱から金、金から緑、緑から菫と、留まるということをしなかった。周りには、拳ほどの小さな玉が、五つ、六つ——七つ。同じように色を流しながら、大きな玉の周りを、気ままに漂っている。


 一行は、二百歩の距離で足を止め、息を詰めた。


 玉は、何もしなかった。


 ゆらり、と横に流れ、止まり、少し沈み、また浮かんだ。小玉たちが、それに付いたり離れたりした。浅瀬では脚長の白い鳥が(例の、水面を歩くやつである)玉のすぐ横で魚を啄んでおり、玉を、まるで気にしていなかった。鳥が気にしないものを、人間だけが総毛立って見ている——その据わりの悪さに、最初に音を上げたのはヴァリクだった。


「……測ります」


 測った。距離、二百十歩。水面からの高さ、およそ五尺。玉の径、一尺二寸。小玉、径四寸前後、数は七。挙動、緩慢な浮遊、風との相関なし。ヴァリクの図面に、数字は、すらすらと乗った。乗ってしまった。乗った数字を見下ろして、ヴァリクは、王都の焼け跡以来の途方に暮れ方をした。全部測れた。何ひとつ、分かっていない。


 一刻が経った。玉は相変わらず何もせず、記録は取り尽くされ、七人の間に、異常事に対してあるまじき、手持ち無沙汰の空気が流れ始めた。護衛の一人が小声で「飯にしますか」と言い、誰も笑わなかったのは、全員、腹が減っていたからである。


 そのとき、テオが、歩き出した。


 深い考えは、無かったと本人は言う。ただ、一刻眺めて何も起きなかったものは、もう少し近くで眺めても何も起きない気がした、と。テオは足音を殺しもせず、五十歩、四十歩と距離を詰め——三十歩を切ったあたりで、それは、起きた。


 玉の色の流れが、ぴたりと、止まったのである。


 止まって、朱一色になった。同時に、小玉たちが、さっと大玉の周りに集まった。何かの気配、としか言いようのないものが、浅瀬の上に立った。こちらに、気づいた——七人の全員が、説明のつかない確かさで、そう感じた。


 そして、玉が、解けた。


 光がほどけ、剥がれ、朝日の中に散って——散った光の芯に、それは、いた。


 小さかった。人の腕の長さほどの、しかし紛れもなく、人の形。薄物のような羽。長い髪のようにたなびく光。一瞬——本当に、瞬きひとつの間——それは宙に立って、三十歩先のテオと、確かに、目を合わせた。


 それから、ピュッ、と。


 音が聞こえそうな素早さで身を翻し、水面すれすれを一直線に、沖へ——霧のある方角へ——飛び去って、見えなくなった。小玉たちが、慌てたように後を追った。


 浅瀬には、朝日と、魚を啄む鳥だけが残った。


 誰も、長いこと、口を利かなかった。最初に口を開いたのはテオで、言ったことは、こうである。


「……逃げられた」


 この一言が、後々まで、この遭遇の公式の要約になった。人の形をした光に、目が合って、逃げられた。それ以上のことは、誰にも言えなかった。ローデン老は帳面に「人形(ひとがた)ノ発光体、一。飛行ス。人ヲ避クル様子」と記し、記してから、「様子」の二字を線で消し、また書き直した。ファルクは、何も書かなかった。書き付けを開いたまま、白い頁を、ずっと見ていた。


 魂の似姿が、朝の浅瀬で日向ぼっこをしていて、目が合ったら、逃げた。


 これを報告する言葉を、神学は、持っていなかった。


---


観客席・その八


 やー、見つかっちゃいましたね、うちの看板娘。


 《五彩の幽精、フィアレイン》。五色。伝説。うちのデッキの、顔です。強いのかって? 本人の戦闘力はほぼゼロだよ。0/3。素手の喧嘩なら多分ミロ君が勝つ。でもいいんだよ、あの子は五色デッキの魂であって、殴る係じゃないの。並べた多色の仲間を輝かせる係なの。……並べる仲間、この盤面には居ないんだけどな。開幕からずっと開店休業で、道理で湖の裏でのんびりしてたわけだ。


 周りの小玉は、あの夜の置き土産ね。俺が五色払って呪文を撃ちまくった十分間の、副産物。二月も裏でのんびりしてたとこに、いきなり七人組が来て、一刻ガン見して、挙句、若いのがずんずん寄ってくるんだから、そりゃ逃げるよな。俺が虹でも逃げる。テオ君、君は数える係であって、詰める係じゃないんだよ。……いや、責めてない。君のおかげで、この盤面の初の「目が合った」が記録された。歴史的瞬間だぞ、あれは。うちの子が初めて、人間を「見た」んだ。


 あと霧ね。散歩してたんだってな、あいつ。


 ……いや、知らなかったんだよ、俺も。ルールは読めても、行動までは書いてないからな、カードに。俺の定席は森の側だし、湖の裏なんて覗きに行く用も無かったし。それを司祭さんの座りっぱなしの記録と、ローデン爺さんの読みが、二月で暴いたわけだ。すごくない? 俺は住人の顔と性能を知ってるだけの受け身の観客で、あの人ら、白紙から行動パターンを解いてるんだぜ。人類、地味に強い。


 二頭目の鯛については……うん。まあ、あれは知ってた。9MP、財布(俺)から出てるからな。息子が独立して家庭を持ったみたいなもんだと思ってる。仕送り(MP)はこっち持ちだけど。


 しかしあれだな、外周ツアー、収穫多すぎたな。光る魚に、水から生えた木に、歩く鳥に、立ちっぱなしの雨。うちの盤面、裏側もにぎやかで何よりだよ。全部は解説しないけどな。解説してたら夜が明けるし、そもそも俺も、二、三個は「誰だっけ……」ってなってるし。


 なにはともあれ、湖、一周まるごと地図になりました。


 俺の場が、また少し、人間の紙の上に写し取られていく。悪い気はしないんだよな、これが。描かれるってのは、見てもらえてるってことだから。


 さて——霧の巡回路も割れたことだし、あの思い詰めた司祭さんが次に何を言い出すか。観客席としては、そこが目下の注目カードです。

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