第十一話 試算と禁書
東からの定期便は、月に二度、決まって木曜の夕刻に王都へ入る。
尚書局の受付方はこの便を「東便」と呼び、東便の日は写字生を二人多く詰めさせるのが、この二月ですっかり習いになった。ローデン老の報告は、几帳面で、大部で、そして写しの宛先が多い。尚書局に一部、学芸院に一部、軍務局と出納院に要約を各一部。写字生泣かせの老人である、というのが受付方の一致した見解だった。
その東便が運んでくるものを、王都の各所は、各所の言葉で読んだ。
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出納院の若い計吏エミルに回ってきたのは、東方産物に関する帳簿の写しと、それに基づく「収益見込みの試算」という宿題である。
材木の項は、素直だった。産出量、品質、輸送費、市価。数字は行儀よく並び、掛けて引けば見込みが出た。上等の見込みである。辺境の一領地としては破格、と注記して、次の項に移った。
漁の項で、エミルの筆は止まった。
漁獲は月を追って伸びている。舟二艘、網六帖での数字である。では舟を十艘にすれば五倍か——と置いてみて、置けないことに気づいた。前提が無いのである。通常、漁場の見込みは資源の総量から立てる。湖の広さ、魚の量、殖える速さ。ところが東方の報告は、その根本のところで、こう言っているに等しかった。曰く、獲っても減らない。曰く、魚の種は既知のいずれとも一致しない。曰く、資源の中心には正体不明の大魚が二頭いる。曰く、湖の大半は未調査である。
エミルは三日かけて試算書を書き、三日目の夜に全部破いて、四日目に一枚だけ書いた。要旨はこうである。
——現況の収益、既に優良。拡大の可能性、算定不能。ただし算定不能の理由は資源の枯渇が見えぬことにあり、すなわち下限すら引けぬ。下限すら引けぬ見込みとは、当院の書式が想定せざる種類の見込みである。
上役はこれを読み、長いこと黙り、それから言った。
「……エミル。『儲かるかもしれない』では、予算は付かんのだ」
「存じております」
「『いくら儲かる』と書け」
「書けません。書くための数字が、あちらにまだ無いのです。数字を取りに行く費えを、付けていただくほかに」
上役はもう一度黙り、試算書の余白に何かを書き付けて、上へ回した。数日後、その紙は「東方湖沼資源の本格調査を要す」という一行を頭に頂いて、尚書局の卓に載ることになる。分からないから調べる、という当たり前の理屈が、分からないでは金が動かぬ役所の中を一周りして、調べるために金を出せという形で出てきたわけである。
なお、この試算騒ぎの間、帳簿の「塩」の行を気に留めた者は、出納院に一人もいなかった。素性の書かれていない塩の仕入れなど、平時なら専売方が目を光らせる筋である。だが、無限に湧く魚の帳簿を前にして、樽詰めの塩の出所を詮索する暇人は、あの役所にはいない。帳簿にも、読まれ方の運というものがある。
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軍務局の読み方は、また違った。
東方に国家的資源あり、と聞けば、軍人の頭は守りに向く。守りに向いた頭が最初にぶつかったのは、しかし、単純な問いだった。——何から、守るのか。
「獣か」
「獣は去って半年になる」
「では、あの森の狼どもか」
「報告によれば、現地は狼と……その、口笛で挨拶する間柄だそうだ」
「…………ベルガナか」
「ベルガナが東の空白を千里回り込んで、湖の魚を盗みに来ると?」
会議は三度開かれ、三度とも「防備の対象を特定するに至らず」で散会した。分からんものへの備えは、予算の書式に載らない。結局、軍務局が起案できたのは「東方派遣団の護衛増強(十名)」という、誰にも反対のしようがない、そして何の役に立つのかも判然としない一項だけだった。ある老参謀は散会の廊下で呟いたという。「敵のおらん土地に兵を出すのは、儂は初めてだ」——半年前、丘の獣に二個中隊を出した男の言葉である。
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学芸院は、沸いていた。
東方増員の枠、若干名。この報せが紀要の会員に回るや、学芸院の狭い建物は、久しく忘れていた種類の活気——すなわち、椅子の取り合い——に包まれた。地図の空白が埋まる現場、前例なき生物相、そして何より、ローデン老の署名入り報告の末尾に毎度付いている一行、「人手ヲ乞フ。若クテ、脚ノ強キヲ」。五十年、王の年金で古い論争を温め直してきた学者たちにとって、これは事件だった。若い会員は履歴を書き、古い会員は若い頃の測量経験を誇張し、選から漏れた者は選考の不正を囁いた。学問の府の常として、決まるまでに人間関係が三つ壊れ、決まってしまえば全員が祝賀の宴に出た。
選ばれたのは、測量方の若手が二名、博物方が一名。それに、学芸院の外から、画工が一名加わった。
画工の同行は、尚書局の発案である。理由は簡明で——王都は、東方の絵を、まだ一枚も持っていないのだった。報告は数字と文字ばかりで、森も湖も、誰も姿を知らない。その空白に、市中の瓦版が想像図で商売を始めていた。曰く、木々が天を突く魔の森(松明を掲げた騎士が添えてある)。曰く、大魚が口を開ける呪いの湖(渦を巻いている)。三種出回って、三種とも似ても似つかぬであろうことだけは、誰の目にも確かだった。獣の絵のときと、同じである。国が正しい絵を持たねば、市中の絵が正史になる——尚書局の老練は、それを獣の一件で学んでいた。
そして、この増員の裁可書に添えられたローデン報告の最新号に、後々まで引かれることになる一節がある。森の奥の山容についての、初めての正式な記録である。
——森林ノ奥、方位東微南、推定七里ノ彼方ニ山容アリ。仰角ヨリ推スニ、高サ千尋ニ及バン。近接調査ハ未ダ成ラズ。特記スベキハ山肌ノ色ナリ。夕照ノ加減ニ非ズ、朝ニ見テモ赤シ。当地ノ古老、鉱山ノ経験者ニ質シタルモ、彼ノ如キ赤ヲ見タル者ナシ。
——尚、本山容ハ異変ノ当初ヨリ町民ノ目視スル所ナリシモ、本日マデ正式ノ記録ナシ。遠キガ故、誰モ書カザリシナリ。
尚書局でこの一節を読み上げた役人は、最後の一文で顔を上げた。
「……半年、誰も書かなかったのか。山が生えたのに」
「遠いから、だそうです」
「遠いから、か」
役人は何か言いかけ、やめた。飛ぶ獣を半国の民が見ながら誰も書かなかった国である。今さら、山の一つや二つ。
もっとも、この一節を別の読み方をした者が、出納院に一人だけいた。鉱山方の老吏である。エミルの席の前を通りがかりに、写しを覗き込み、赤シ、の一語のところで足を止め、それだけ言って行った。
「赤い山、なあ。……鉄か、朱か。どっちにせよ、坊主、覚えとけ。赤ってのは、掘るものの色だ」
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王国全図は、この半年で、少し重くなった。
貼り紙が増えたからである。老尚書の部屋の卓に広げられた地図の東端には、いまや小さな紙片が幾重にも貼り重ねられている。森の外縁を写した実測図。湖の外周図(真新しい。先週の東便で着いたばかりである)。霧の巡回路の推定線。街道筋の目撃の札は、日付が検証されて、清書の線に格が上がった。
半年前、この卓で「引かん」と言われた線は、今は測量値の裏付きで、堂々と引かれている。
その地図を囲んで、この日、三つの官房の代表が座っていた。議題は、東方体制の格上げである。出納院は湖の本格調査を求め、軍務局は護衛の増強を求め、学芸院は増員の早期出立を求めた。三者の求めは互いに矛盾せず、束ねれば一本の裁可で済む。珍しく円滑に進んだ議事の最後に、出納院の代表が、咳払いをして、もう一件、と切り出した。
「……ハルデンの、法的地位の件でございます」
老尚書の眉が、わずかに動いた。
「かの地は本来王領。しかるに六十年来、モレン家への質に入ったまま、請け戻されておりません。当時は請け戻す値打ちの無い土地でございました。……が、現在、かの地には」
「言いたいことは分かる」
老尚書は、地図の東端の、貼り紙の厚みを、指の背でとん、と叩いた。
「分かるがな。順序というものがある。あの湖の値打ちは、まだ『算定不能』なのだろう。おぬしの院の若いのが、そう書いてきたのだろうが。算定不能のものの権利を、今、値切り交渉の卓に載せてみろ。モレン家は算定不能の高値を吹っかけてくるぞ。……測るのが先だ。値札は、測ってからつけるものだ」
「では、いつ」
「数字が出たときだ。それまでこの件は、この部屋から出すな。……よいか、外に出すなよ。値打ちの噂だけが独り歩きすると、王領の質だの何だのに、余計な虫が寄る」
議事録に、この最後のやりとりは載っていない。載っていないことを、後に幾人かが、それぞれの理由で惜しむことになる。
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同じ週、大灯座の地下でも、一枚の紙が処理されていた。
処理したのは、書庫方審査室の若い司書、イーヴォである。イーヴォの席は、かつてファルクが十年座っていた席で、仕事も同じ——読んではならぬものを、職掌において読む仕事である。
東方から届いたその閲覧請求を、イーヴォは初め、書き間違いかと思った。
——『イェルデの書』写本一巻、審査官の資格において閲覧を請う。事由:東方異変に関わる照合。至急。
イェルデの書。目録で確かめるのに半刻かかった。二百年前の異端、写本現存一巻、閲覧記録は過去五十年で二件——うち一件は、十年ほど前の、F・――の署名。請求者と同じ署名である。つまりファルク師は、かつて自分の読んだ文書を、もう一度確かめたがっている。東方異変に関わる照合、という事由で。
東方異変については、イーヴォも噂で知っている。一夜の森。王都を焼いた獣の、故郷かもしれぬ土地。そして近頃の東便がもたらす、俗人どもの間で囁かれる新しい噂——東の湖には、人を眠らせる霧が出るそうな。
イーヴォは禁書庫の鍵を取り、燭台を持って、地下の奥へ下りた。
写本は、目録の言う棚の、言う位置に、あった。二百年の埃を払って、審査室の卓に載せ、規則の通り、閲覧に先立つ内容確認として、頁を繰った。断罪の根拠となった数葉は、記録の通りの場所にあった。それを確かめれば、確認としては足りる。足りるのだが——事由の欄の「照合」の二字が、イーヴォに、序章を読ませた。
読み終えて、イーヴォは、しばらく燭台の火を見ていた。
月。まどろむもの。従う小さき灯り。触れしものは、痛みなく眠りて、還さるる。
人を、眠らせる、霧。
イーヴォは若く、審査官としては未熟で、しかし、未熟な審査官にも分かることはある。すなわち——この一致に気づいた人間は、今、王国に二人しかいない。二百里東の草地に座っている一人と、この地下にいる自分である。そして規則の上で、自分にできることは二つだけだった。写しを作って請求者に送ること。そして、上に報告するか、しないかを、決めること。
写しは、その晩のうちに作った。二百年前の文字を、一字も違えず、震えない字で写すのに、夜半までかかった。
報告は——イーヴォは三日、決めかねた。報告すれば、この一致は自分の手を離れ、大灯座の階を上っていく。上っていった先で何が始まるか、審査室の若造には見当もつかない。報告しなければ、規則には反しないが(閲覧請求の処理に報告義務はない)、自分は「知っていて黙った者」になる。
四日目の朝、イーヴォは、写しを東へ送る封筒に、規則の求める送り状を添え、その末尾に、規則の求めない一行を書き加えた。
——師よ。序章を、読みました。
それだけである。それだけ書いて、封をした。報告は、しなかった。代わりに、というわけでもないが、その日から、イーヴォは東便の噂に、誰よりも注意深く耳を立てる司書になった。
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増員の一行——学芸院の三名、画工、護衛十名、それに各官房の書き付けを山と積んだ荷駄——が東門を出たのは、月の替わった最初の朝である。
隊列は、東稜堡の下を通った。溶けて黒光りする、あの砲座の跡の下を。子供らが「竜の台所」と呼ぶ石の前には、この頃には物売りが出るようになっていて、その朝も、飴売りが早くも店を広げていた。護衛の一人が見上げて何か言い、隣が笑い、隊列は止まらずに通り過ぎた。
半年前、名も付けられなかった災いの痕は、いまや町の景色である。そして隊列の向かう先には、半年前には地図に無かったものが、測られ、描かれ、貼り紙になって、待っている。
東便の写字生たちは知っている。紙の量は、これからもっと、増える。




