↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
13/18

幕間 左腕の勘定

 白。


 最初に来たのは、それだった。音ではない。熱でもない。世界の右半分が、継ぎ目なしに白に塗り潰され、目の潰れる白の中で、ダンは自分が宙にいることを知った。飛ばされている、と考えるより先に、背中から石畳に落ちていた。


 音は、その後から来た。来た、というより、通り過ぎた。天が裂ける音を布団越しに聞くような、遠くて巨大な轟き。耳の奥で高い音がひとつ鳴り続け、それきり、世界から音がなくなった。


 痛みは——無かった。


 それが一番、おかしかった。ダンは仰向けのまま、煙の向こうの空を見て、点呼のように体を数えた。脚、ある。腹、ある。右腕、ある。左腕——


 首を回した。


 さっきまで自分の立っていた砲座が、無かった。砲が、胸壁が、石畳が、火薬箱が、そこにあった全部が、境目のところで飴のように垂れて、黒く光って、湯気を立てていた。その消えた側に、肘から先を、置いてきていた。切り口は焼けて塞がり、血の一滴も、流れていなかった。


 痛くない、と、ダンはもう一度思った。思って、それから、これは後で纏めて来るやつだ、とも思った。砲兵は請求書の後払いに慣れている。


 ——請求書は、その晩、きっちり来た。利子付きで、今も月々、雨の前に来る。


 が、それはそれとして。


 ダンの朝は、飴売りの荷車を手伝うところから始まる。


 手伝うといっても、片腕である。空いた方の腕で幟を立ててやり、あとは荷車の脇の定位置——東稜堡の、溶けた砲座がいちばん具合よく見える石段の三段目——に腰を据える。これで朝の仕事の半分は済んでいる。


 見物人は、日に百人は来る。王都の新名所である。黒光りする石の前で連れに講釈を垂れる者、絵を写す者、こわごわ触る者。そのうちの何人かが、必ず、石段の男の左袖が肘から先で結ばれていることに気づく。気づいて、視線が往復する。溶けた砲座と、結ばれた袖と。


 そこで、ダンは頷いてやるのである。にっこりと。


「——ご明察で」


 あとは向こうから寄ってくる。あの日ここにいなすったのか、その腕はまさか、と。ダンは飴売りから飴をひとつ買ってやる客にだけ(これが飴売りとの協定である)、袖の結び目を、ゆっくり解く。


 肘から先は、無い。断面は、焼き締められた黒褐色で、蝋を垂らして固めたように、つるりとしている。医者が言うには、火が肉を焼くと同時に血の道を塞いだのだそうだ。だからダンは死ななかった。王都広しといえど、あの火を浴びて生きている人間は、ダンを入れて四人。うち袖を見せて銭を取っているのは、ダンだけである。


「痛かったかって? 旦那、それがね。熱いより先に、無かったんですよ。見たら、無い。……ま、その晩からは痛かったですがね。無い腕が痛むんだ、これが。今でも雨の前にゃ、無い拳を握ってまさあ」


 客は飴を舐めるのも忘れて聞いている。ダンは袖を結び直し、締めに必ずこう言う。


「稜堡の下の芝居小屋で、夜にもっと詳しくやっとります。木戸銭は飴より高いですがね——腕は、夜のほうがよく見える」


---


 昼は、学芸院である。


 月に二度、決まった日に、ダンは学芸院の一室で上着を脱ぐ。万象学者と医学の教授が、ダンの断面を検分するのである。測り、写生し、色の変化を前回の記録と見比べ、突いたり(痛くはない)撫でたり(くすぐったい)する。月極めの謝礼が出る。世の中に、腕の切り口で月給を貰う男が何人いるか知らないが、少なくとも王都には一人いる。


 検分の間、ダンは学者たちの世間話を聞くのが楽しみだった。東の話が多い。森だの湖だの、王都の酒場より一月は早い噂が、ここでは机の上の紙に載って飛び交っている。


「東と言やあ、先生がた」と、ダンは検分されながら口を挟む。「うちの隊におった検分好きの旦那——ヴァリクの旦那ね、あの人も東でしたろう。達者ですかい」


「ヴァリク殿? ああ、達者どころか。報告の測量図は、半分あの御仁の手だ」


「へえ。あの旦那、砲の錆の数まで帳面につける人でしたからねえ。……森の木の数でも数えてなさるんでしょうよ」


 学者たちは笑い、あながち外れでもない、と言った。ダンは満足した。生きて、東で、木を数えている。あの朝、同じ稜堡にいた者の消息としては、上等の部類である。


---


 夕刻からが、本業だった。


 稜堡下の芝居小屋。演目は、このところ王都で当たりを取っている人形芝居——『終末の章より・炎の獣の段』。教義の写本にある、終わりの日の竜の寓話である。あくまで、聖典の教えの上演である。舞台の上で翼を広げる竜の人形が、何ぞに似ているなどと、口に出す者は小屋にはいない。出さないまま、客席は毎晩埋まっている。


 竜が火を吹き、罪人の人形が倒れる場面で、仕掛けの蝋人形が、とろりと溶ける。ここが評判の見せ場で、職人が灯りと蝋の按配に工夫を凝らしている。初日にこれを観たダンは、楽屋に乗り込んで座長にひとこと言った。「遅い」。以来、ダンは小屋の「監修」である。溶ける速さ、火の色、音——本物を浴びた男の注文は、細かく、外れがなく、そして客の入りに、覿面に効いた。


 そして幕間(まくあい)、口上の段になると、座長が客席に呼ばわるのである。


「——さて皆様。ただいまご覧いただきました炎、絵空事とお思いの向きもございましょう。なれば、ここに。あの朝、東稜堡にてまことの炎を浴び、なお生きて皆様の前に立つ男を、ご紹介つかまつる——」


 ダンの語りは、講談の型で始まる。


 いつもの、決まりの節回しである。あの朝、空が翳り、鐘が鳴り——客は安心して聞いている。芝居小屋の口上に本当の話があるものか、という顔で、麦酒を舐めながら。ダンはその顔を、舞台の上から、ちゃんと見ている。見ながら、少しずつ、話の目を細かくしていく。


 砲の傍の火薬箱の蓋が、熱で反る音。帯の中と外とで、匂いが違ったこと——中は、何も匂わなかったこと。焼けるものが、匂いを出す間もなかったからだ。そして、隣の砲座のロルフ。


「……ロルフの野郎はね、皆さん。ちょうど、境目に立ってたんでさあ。右半分が、帯の中。左半分が、外。——右は、消えました。煙も出ずに。左は、旦那がた、傷ひとつ、ねえんです。左の目なんぞ、開いたまんまで。おれは今でも、あの左目が何を見てたのか、考えますよ。右半分が消えるのを、左目で見てたのかって——」


 麦酒の音が、止んでいる。客の何割かは、まだ疑う顔で踏み止まっている。作り話だ、口上だ、こういう趣向だ、と。


 その顔つきの潮合いを、ダンは知り尽くしている。知り尽くした頃合いで、ダンは袖の結び目に、指をかける。


「——嘘だとお思いの旦那。ようがす。嘘か真か、こいつに聞いておくんなさい」


 袖が、落ちる。


 燭台の火に、黒褐色の断面が、つるりと光る。


 小屋が、静まる。毎晩、同じ場所で、同じように静まる。この静けさが、木戸銭の中身である。法螺の椅子に座った客が、事実を土産に立ち上がる——その入れ替わりの一瞬を売って、ダンは食っている。そして客は、翌日、連れに言うのである。あれは法螺だと思うだろう、腕を見ろ、と。次の晩の客は、そうやって湧く。


---


 むろん、面白くない向きも、いないではなかった。


 一度、若い司祭が楽屋に来た。民の心をみだりに騒がせる語りは如何なものか、灯りの教えは平安を——と、そこまで言ったところで、上着を脱ぎかけていたダンの断面が目に入り、説教の続きは、出てこなかった。司祭は施しの句を口の中で唱えて帰った。以来、来ない。


 役人も、一度来た。表現に、いささかの配慮を、と。


「配慮ね。旦那、どのへんを薄めやしょう」ダンは真顔で聞いた。「ロルフの右半分ですかい。それとも、おれの腕ですかい。……薄めていいなら、おれが一番薄めてえんですがね」


 役人は咳払いをして、穏当に、とだけ言い残して帰った。穏当の基準は、示されなかった。示しようがなかったのだと思う。ダンの語ることは、一字一句、軍務局の顛末書に載っている通りの事実である。事実を、体験した者が、語っている。これを禁じる文言は、王国の法にも、教会の典礼にも、無い。無いことを、ダンは正確に知っていて、その無いことの上に、店を広げている。


 国に腕を持っていかれた男が、その腕の話で国の都に店を張る。文句のある向きは、腕を返しに来ればいい——というのがダンの言い分だが、これは酒が入ったときにしか言わない。素面の商売人は、勝てる喧嘩もしないものである。


---


 夜、店じまいの酒場で、ダンは残った方の手で麦酒を呑む。


 隣に座るのはたいてい飴売りで、話題はたいてい商売である。このところ飴売りがしきりに言うのは、丘のことだった。セルネの丘——獣の座った、あの丘である。近頃あちらでは、火で灼けてガラスになった地面を砕いて売る商売が当たっているという。「竜の涙」というのだそうだ。小指の先ほどの黒い塊が、銅貨五枚。


「五枚! 石ころが!」


「石ころじゃねえ、竜の涙だとさ。……なあダンよ、うちも丘に出りゃあ」


「やなこった」ダンは麦酒を舐めた。「あっちは石ころ、こっちは本物よ。本物は、動かねえのが格ってもんだ」


 と言いつつ、銅貨五枚、という数字が腹のどこかに引っかかっているのを、ダンは自分で分かっていた。石ころで五枚なら、腕は幾らだ——考えかけて、やめた。考えの続きは、いずれ丘を一度、この目で検分してからでいい。商売人の偵察は、素面でやるものである。


 さて、このところ、酒場の噂は東のことが多い。眠らせる霧が出るそうだ。牛ほどの魚が二頭いるそうだ。水から木が生えているそうだ。虹色の光の玉が、人の形になって逃げたそうだ——噂は月に一度、東便のあとに一斉に鮮度を増し、あとは尾鰭を伸ばしながら次の便を待つ。


 人の形になって逃げた、のくだりを聞いたとき、隣の男が笑った。「法螺もそこまで行きゃ大したもんだ」と。


 ダンは、笑わなかった。麦酒を一口呑んで、それから言った。


「……旦那。おれはね、半年前まで、空を飛んで火ィ吹く獣なんてのは、芝居ん中だけのもんだと思っとりました」


「そりゃ、まあ」


「今じゃその芝居の口上で食ってまさあ。——だからね、旦那。東の法螺はね、笑うんなら、半年経ってからにしときなせえ。おれの経験じゃあ、この頃の法螺は、半年で本当になる」


 男は笑い、笑いながら、少しだけ、笑いを引っ込めた。


 ダンは麦酒を干して、無い方の拳を、一度だけ握った。雨が、近いのかもしれなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。