第七話 霧と月
沖に霧の立つ日があることは、漁を始めた頃から知られていた。
妙な霧だった。岸は晴れているのに、沖の一所にだけ、白い塊がわだかまっている。風が渡っても流れず、日が高くなっても散らない。立つ日と立たない日があり、立つ場所は、いつも決まって同じあたり——主を見た沖の、さらに向こうである。
ヨスト爺の沙汰は、聞くまでもなかった。
「霧に、船を入れるな。川でも霧の日は舟を出さん。ましてあれは、動かん霧だ。動かん霧なんてものは、儂は六十年で見たことがない。見たことのないものには、近寄らん」
誰も逆らわなかった。逆らわなかったが、一人だけ、目を輝かせた者がいた。
ミロという。加工場の燻し番に雇われた、十七の小僧である。下流のヴィント村の生まれで、口より先に体が動く質だった。湖に来て三日目には主の背を見て「でかい」と手を叩き、七日目には「霧の中、覗くだけなら」と言い出して、ヨスト爺に櫂の柄で軽く小突かれた。
「覗くだけ、が世の中で一番高くつくんだ、小僧」
「けど爺様、あの霧、なんか光りません? 夕方とか、中がぼうっと」
「光るから、行かんのだ」
問答は五度あった。五度ともミロが負けた。六度目は、問答にならなかった。
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その日、ヨスト爺は岸にいた。燻し棚の火の按配は、まだ爺にしか任せられない。舟には三人——櫂がテオともう一人の若い衆ペル、網がミロである。いつもの岸の帯で網を二打ちし、籠は早々に埋まった。帰るだけの、いつもの朝だった。
風が、変わった。
陸からの追い風が、ふっと落ちて、沖からの流れに替わった。大した流れではない。だが平底のホルテは腰が軽い。気づいたときには、舟は帯の外へ、じわりと押し出されていた。
「戻すぞ」とテオが櫂を入れ、ペルが合わせ——そこで、ミロが言った。
「……なあ、近い」
霧が、近かった。
いつも遠目に眺めるだけの白い壁が、目測で百間先にあった。流されたのは舟か、寄ってきたのは霧か、後になっても三人の言い分は合わない。ただ、その距離で見る霧が、遠目とはまるで違うものだったことだけは、三人とも認めている。壁ではなかった。膜だった。薄く、白く、内側から、ほのかに明るい。
「ちょっとだけ」ミロが立ち上がった。「縁だけ。縁を見るだけ——」
「座れ、馬鹿」
テオが襟首を掴もうとした、その一瞬の櫂の乱れを、沖からの流れは見逃さなかった。舟がすっと滑り、舳先が白いものの縁に、触れた。
触れた、と思った次の瞬間、舟が、走った。
漕いでいないのに、走った。水が舟底を掴んで引くような、太い、逆らいようのない流れ。テオとペルが慌てて櫂を突っ込んだが、櫂は水を掻くというより水に持っていかれ、舟はぐんぐんと白の中へ引き込まれていった。視界が乳色に閉ざされ、岸の方角が消え、上下の感覚だけを残して、白い中を、どれほど運ばれたか。
やがて、流れが、ふっと緩んだ。
舟が惰性で滑り、止まり——気づけば、音が消えていた。水音も、風も、自分たちの息の音まで、綿に包まれたように遠い。乳色だった視界が、いつの間にか青く沈み、澄み、そして、頭上に、星が出ていた。
満天だった。
見たこともない数の星が、見たこともない濃さで、頭の上から水平まで、隙間なく撒かれていた。湖面は凪ぎ、鏡になり、星を映して、舟は上下を星に挟まれて浮いていた。どちらが空か、一瞬分からなくなるほどだった。そして、星々の只中に、満月があった。大きく、白く、輪郭の際まで冴えた、望の月。
真昼である。ついさっきまで、真昼だったのである。
誰も、声を出さなかった。出せなかった。ペルは櫂を握ったまま固まり、テオは自分の心の臓の音だけを聞いていた。祈りの文句は、三人とも一行も出てこなかった。灯堂で習うどの言葉も、この眺めのためには作られていなかった。
それは、月の下に、いた。
最初、テオはそれを雲だと思った。月にかかる薄雲。だが雲は、脈を打たない。
傘だった。灯堂の丸屋根より、なお大きい。半ば透きとおり、月の光を孕んで、内側から真珠色に明滅しながら、それは夜空を——真昼の夜空を——音もなく、ゆっくりと、泳いでいた。傘の縁から、月光を紡いだような幾筋もの帯が、長く長く垂れて、風のない空を流れていた。周りには、小さな光が五つ。灯籠ほどの、丸い、柔らかな光が、傘に付き従って漂っている。
大きさが、意味を失っていた。距離も高さも測れない。ただ、それが頭上を過ぎるとき、星が透けて見えた。星の透ける生き物が、月の前を横切っていくのを、三人は舟底に尻をつけたまま、口を開けて見上げていた。
美しい、と思ったことを、テオは後に誰にも言っていない。言えば、次の言葉を続けねばならないからだ。美しくて——そして、自分たちがここにいてはいけないと、骨の髄で分かった、と。
小さな光のひとつが、すう、と高度を下げた。
急ぎもせず、狙いもせず、ただ流れの向きが変わったという風情で、それは舟のほうへ漂ってきた。近くで見れば、灯りではなかった。泡だった。月光を封じたような、淡く光る、人の頭ほどの泡。
ミロが、立ったままだった。
立ったまま、泡を見ていた。逃げる素振りはなかった。手を伸ばした、とペルは言う。伸ばしていない、ただ立っていた、とテオは言う。どちらにせよ、泡は、ふわりとミロの肩先に触れ——音もなく、弾けた。
ミロは、坐りこむように、崩れた。
「ミロ!」
テオが飛びついたとき、小僧はもう舟底で、眠っていた。苦悶はなかった。息は深く、規則正しく、頬には血の色があり、口元は緩んでいた。揺すっても、叩いても、水をかけても、まぶたは動かなかった。ただ、眠っていた。
頭上で、傘が、ひとつ脈を打った。
それが合図だったわけではあるまい。だが二人には十分だった。テオとペルは、生涯であれほど漕いだことはない、という漕ぎ方で漕いだ。星明かりの水を裂き、夜の中をどこまでも——岸の方角など分からない。ただ月に背を向けて漕いだ。夜空はなかなか途切れず、腕が焼け、喉が鳴り、これは出られないのではないかと、どちらかがそう思いかけた頃、闇がふっと薄れて乳色に戻り、乳色が眩み——二人は光の中へ躍り出た。
真昼だった。何事もない真昼で、岸は思ったより遠くにあり、燻し場の煙がのどかに立ち上っていて、空には太陽が——当たり前の、一つきりの太陽が——かかっていた。
振り返れば、沖の霧は、今日も動かずに、そこにあった。
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ミロは、まる一昼夜、眠った。
加工場から下町へ、下町から台地へ、眠ったまま担ぎ上げられ、灯堂の隣の施療部屋に寝かされた。老司祭が灯りを掲げて祈り、木の実の婆様が(誰に頼まれるでもなく上がってきて)濡らした布だの匂いの強い草だの、婆様の知る限りの手を尽くした。脈は打ち、息は通い、体は温かい。毒の兆は、何ひとつない。ただ、起きない。
夜どおし、施療部屋の外には人が絶えなかった。誰も口には出さなかったが、皆、同じものを待っていた。夜が明けて、それでも起きなければ——その先は、誰も考えたくなかった。
ミロは、夜明けと共に、起きた。
大あくびと共に身を起こし、居並ぶ顔を見回して、きょとんとして、言った。
「……あれ。ここ、どこです。おれ、腹が減った」
施療部屋の空気が抜けた音を、テオは一生忘れないだろうと思った。婆様が真っ先に笑い、老司祭が祈りの句を最後まで唱え直し、誰かが泣き、誰かがミロの頭をはたいた。当のミロは、はたかれながら粥を三杯食い、食い終えてから、ぽつりと言った。
「……すげえ、いい夢を見てた気がするんだけどな。思い出せねえ」
その日のうちに、参事会は湖の決まりに一条を足した。曰く、沖の霧より向こうへは、いかなる理由でも船を入れぬこと。破った者は漁から外す。——罰則まで付いたのは、魔境絡みの決まりでは初めてである。
もっとも、決まりより速く走ったのは、話のほうだった。
昼が夜になった。満月があった。星が透ける、灯堂より大きい海月が、月の下を泳いでいた。触れた者は、死なずに、眠らされて、還された——テオとペルの語る一部始終は、その晩のうちに台地を駆け巡り、翌朝にはもう、酒場で三通りに育っていた。
灯堂の献灯は、その週、倍になった。
老司祭は安息日の説教で、今度こそ正面から問われた。あれは何なのですか、と。御使いですか、魔ですか、と。老司祭は長いこと黙り、それから、教義のどこにもない、自分の言葉で答えた。
「……分からん。分からんがな。殺せるものを殺さず、眠らせて還すものを、わしは、悪と呼ぶ言葉を持っておらん。持っておらんだけだ。善と呼ぶ言葉も、まだ持っておらん。……ただ、灯りは灯しておきなさい。分からんものの前でこそ、灯りは灯すものだ」
ヨスト爺はといえば、戻ってきたミロの頭を櫂の柄で(今度は少し強めに)小突き、それきり説教ひとつしなかった。ただその晩、燻し棚の火を見ながら、テオにだけ聞こえる声で言った。
「な。……知らんから、覗かんのだ」
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・ 観客席・その六
さて。約束どおり、種明かしの回です。
まず、うちの湖の沖にお住まいの、あの御方について。
《夢泡を産む大海月》。クラゲにしてイリュージョン。あの霧と夜空はあいつの纏ってる幻影ね。傘の周りの泡は五個編成の護衛で、触れたら一日おやすみ。攻撃力は無いから、死にはしない。世界で一番荘厳な「立入禁止」の札です。
で、だ。ここからが本題なんだけど——あいつ、俺のデッキに入ってません。
入ってないどころか、デッキ候補に挙がったことすらない。あれはうちのストレージ——実家の部屋の、引き出しの中の、二軍どころか戦力外のカードの山——に埋まってたやつです。お値段、たしか一枚二十円。買い取り値じゃないよ、売り値で二十円。五枚で百円のコーナーから救出した子です。
その二十円が、いま、昼を夜に変えて、町の献灯を倍にしてる。
い い か げ ん に し ろ。
いや何がって、格差がだよ。うちのデッキで一番高かったレアより、あいつの参拝客のほうが多いんだぞ、もう。二十円に負ける四千円ってなんなんだ。カードの値段、あてにならなすぎる。今度から神々しさで値付けしろ。
じゃあ何であいつがここにいるのか。犯人は、森の奥のカタンカタンです。
あの夜、俺が組みかけたコンボ——《異界選別機》と《空転する帰還輪》。細かい話は端折るけど、選別機ってのは「手持ちの外から呪文を借りてくる」装置で、帰還輪はそれを回すための歯車。本来はここに三枚目、カードを引き続けるための装置が入って、三枚で一つの輪になる。輪が完成してれば、湧いてくるMPを端から呑み込み続ける機関になって——つまり、俺は死んでなかった。三枚目は、今も俺の腰のデッキの中。俺は、カードに触れない。以上、事件の全容でした。
で、二枚だけの選別機がどうなってるかというと、これがもう、壊れた自販機なんだ。本来は使い手が「この三枚から」って候補を絞ってから回すガチャなのに、絞る奴がいないから、範囲が「俺の全在庫」になってる。
おい。それは、おかしいだろ。
人んちのストレージを勝手に漁るな。あれは俺の二十年の蓄積だぞ。思い出と間違いの山だぞ。四桁枚あるんだぞ。しかも引き出しの奥の方、中学の頃に組んだ「闇のデッキ」の残骸が眠ってるんだからな。あれを引くのだけはやめろ。頼む。当時の俺のネーミングセンスごと実体化されたら、俺は今度こそ成仏する。
しかも動力が謎でね。あれ、回すのに手札を一枚食わせる仕組みなんだけど、俺は手札なんて持ってない。持ってないのに、忘れた頃にカタン、って一回転して、何か出てくる。何を食って回ってるのか、設計者(俺)にも分からない。無断稼働の上に燃料まで自前調達って、お前が一番この盤面で自立してるよ。見習え、ドラゴン。
あ、それと親切設計がもう一個あって、選別機で借りたカードは、用が済むと「外部」に還るの。外部ってつまり、俺の部屋。あの海月も、寿命が来たら実家の引き出しに戻る予定。異世界で神様やって、死んだら六畳間。返却されても困るんだよな、神様の使用済み。中古扱いでいいのか、あれ。
というわけで、俺の盤面には「俺も知らない住人」が、これからも、たまに、増えます。次が二十円の神様とは限らない。五円の何かかもしれないし、闇のデッキの一枚かもしれない。楽しみだなー(棒読み)。
——お。
おお?
西だ。街道の先、王都のほうの地平に、土煙。一つじゃない。荷馬車と、騎馬と……列だな、あれは。旗も見える。
来たな、お上。
やれやれ、静かな観客席も今日までかもしれない。いいだろう、席なら空いてる。この劇場、当分の間、全席自由・木戸銭無料だ。
爺さんたちの帳面と、王都の学者の帳面が、これから突き合わされるわけだ。……正直、ちょっと楽しみにしてるんだよな、それ。




