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第三話 鱗と地図

 獣の去った王都で、最初に元に戻ったのは物価だった。


 跳ね上がった穀物は十日で落ち着き、閉まっていた東門周りの店は半月で開いた。十万の都市は、たった百九十人の死では止まらない。市場が挽き肉と噂を売り、灯堂が弔いを済ませ、瓦版が三通りの獣の絵(どれも似ていない)を刷って売り切る頃には、市民の大半にとって、あの日は「語るための過去」になりつつあった。


 戻らないものは、東稜堡の上にある。


 レンス・ヴァリクは相変わらずほぼ毎日、飴のように流れた胸壁の前に立っていた。もっとも今は、感傷で立っているのではない。命令で立っている。彼の新しい職務は、砲のない砲台の警備——正確には、そこで回収された「物品」の保管責任者である。


 物品は、四枚あった。


 一枚は、セルネの丘の頂近く、砲弾の一発が獣を掠めたと思しきあたりの草の中から。二枚は丘の中腹から。最後の一枚は、市壁の際、獣が河岸砲台を潰した折に剥がれ落ちたか、稜堡の残骸の下から掘り出された。


 大きさは、大皿ほど。形は、松かさの一片を巨大にしたような、緩やかに反った楕円。色は赤銅で、光の加減で葡萄酒色の光沢が走る。そして、誰もが手に取った瞬間に同じ顔をする——重いのだ。見た目から腕が予想する重さの、優に三倍はある。両手で持って、腹に載せて運ぶ重さである。


 触れれば、温かい。夏の午後の石垣ほどの、かすかな、しかし確かな熱。回収から幾晩経っても冷めない。そして夜、灯りを消した保管庫の中で、それはほの白く、燠火の名残のように光っていた。


 武具廠の検分は、三日で音を上げた。


 鑢は滑って歯が立たず、鑿は鱗ではなく鑿のほうが欠けた。焼き入れした鋼の鋸を潰し、水車仕掛けの研ぎ盤を潰し、最後に廠で一番大きい坩堝に入れて三日三晩焼いたが、鱗は熱くなっただけで、色ひとつ変えなかった。廠長の報告書は簡潔である。曰く、「当廠の備えるいかなる手段によっても、切削、穿孔、鎔解のいずれも能わず。以上」。


 斬れず、削れず、溶けず、しかし此処に在る。


 厄介なのは、そこから先だった。


---


 誰のものか、である。


 最初に手を挙げたのは軍務局だった。理屈はこうである。当該事案は駆除であり、駆除の獲物は狩り手に帰属するのが猟の慣わしである。狩り手は王軍であるからして、獲物の遺したものは軍の管理に属す——。


 出納院が翌日、異を唱えた。理屈はこうである。当該物品は地より拾得されたる鉱物様の産物であり、鉱物産出物は王のレガリアに属す。よって鱗は王室財産であり、管理は出納院が——。


 これに対し軍務局は「鱗は鉱物ではなく獣の一部である」と反論し、出納院は「では骨牙角の類として関税表のどの項に載るのか示されたい」と切り返し、論争は「竜の鱗は石か骨か」という、大学の法学士たちが目を輝かせる論題となって王都の書斎を潤した。


 そこへ、聖灯教会が加わった。


 教会の言い分は、二つに割れていた。大灯座の内の一方は、あれを聖遺物庫に納めるべしと説く。写本の獣の実在が疑われる今こそ、実物を教会の手に置き、来たるべき解釈を教会が主導せねばならぬ、と。他方は、あれを人目から遠ざけ、できれば地中深く封じるべしと説く。あのようなものを飾れば、市中に千の異端と万の恐慌が生まれる。名を与えず、姿を見せず、忘れさせるのが牧者の務めである、と。


 同じ組織の中から「祀れ」と「埋めろ」が同時に出てくるのだから、外の綱引きが纏まるはずもなかった。


 学芸院は、この間、綱を引かなかった。引く綱がなかった、と言うべきか。会員四十名の年金学者に、軍と王庫と教会を相手取る力はない。代わりに彼らは、綱引きの脇で、ひたすら測っていた。目方、寸法、熱、光。所有権の論争が白熱するほど、当の物品はといえば、毎日きちんと計量され、写生され、記録されていく。所有を争う者は数多く、観察する者は一握り、というのは、およそ宝物というものの常である。


 決着は、二月ののち、いかにもこの王国らしい形でついた。


 鱗は王室財産とする(出納院の顔)。ただし保管は軍の武具廠が武装の下に行う(軍務局の顔)。移送と保管に際しては大灯座の祝別を受け、月に一度、司祭が灯りを捧げる(教会の顔——祀る派の)。公開はせず、存在は公文書に留め、瓦版への言及は差し止める(教会の顔——埋める派の)。そして学芸院会員は、届け出の上、月に四日、これを検分できる(学芸院の、顔というより、袖の端)。


 かくして王国は、一枚の大皿ほどの物品のために、番兵の当直表と、祈祷の暦と、面会日を持つことになった。


 ヴァリクは当直表の筆頭に名があった。彼は毎晩、ほの白く光る四枚——正確には、この頃には三枚になっていた。四枚目は武具廠から大灯座への祝別の往復のどこかで所在が知れなくなり、関わった全員が自分の署名した受領書だけを楯に「渡した」「受け取っていない」を言い合った末、帳簿の上では「移送中の毀損により消失」という、誰も信じていない一行に化けた——三枚の鱗を検めながら、ときどき考える。


 斬れず、削れず、溶けぬものが、どうやって「毀損により消失」するのだろうな、と。


---


 聴取会が開かれたのは、所有権論争がまだ熱かった頃である。


 言い出したのは学芸院だった。獣に軍略は通じぬ、通じるとすれば獣の理である、ならば獣の理に通じた者らに問うべし——理屈が立っていたのと、費えが茶と椅子代しかかからなかったのとで、珍しく即座に認められた。


 学芸院の講堂に集められたのは、王室鷹匠頭、北の山地から呼ばれた熊撃ちの猟師頭、毛皮と羽根を商う大店の主人、それに獣医と、博物誌の講読で禄を食む大学の老教授。上座には軍務局と尚書局の役人が並び、ヴァリクは証人として末席にいた。獣を至近で見た生き残りとして、彼はこの手の席に引っ張り出されることが増えていた。


 鷹匠頭は、獣の飛び方について問われ、ヴァリクら証人の語る様子——羽ばたきは少なく、翼を張って滑るように、市壁沿いを低く速く——を聞き取ると、長いこと黙り、それから言った。


「飛び方だけなら、鳶や鷲と同じでございます。理に適った、良い飛び方で。ただ……」


「ただ?」


「鷲の理屈で申せば、あの図体を浮かせて養うには、途方もなく食わねばなりません。鷲一羽が兎を狩って食う、その釣り合いをあの大きさに引き延ばしますと——」


 鷹匠頭は、傍の書記が差し出した算盤を借り、しばらく珠を弾き、出た数字を口にするのをやめて、算盤ごと役人に見せた。役人の眉が上がった。


「……牛、でございますか。日に」


「日に、とは申しません。獣は食い溜めが利きます。ですが月の勘定でならば、それだけの肉が要りましょう。つまり」


 猟師頭が、後を引き取った。上等の服に着替えてきたのが却って板についていない、岩のような老人である。


「つまり、旦那がた。そいつの縄張りは、べらぼうに広い。牛の勘定が立つだけの獲物を抱えた山なり森なりが、丸ごとそいつの台所だ。王都の近くに、そんな台所はねえ。あったら儂らが先に狩り尽くしてる」


「……すると、あれは」


「旅の途中だったんでしょうな。渡り鳥が沼で羽を休めるみてえに、ちょいと丘で休んだ。それだけのことで」


 講堂の空気が、目に見えて緩んだ。通過。滞在ではなく通過。ここは奴の縄張りではない。役人の一人が、報告書の下書きに早くもその旨を書きつけ始めたのを、ヴァリクは横目で見ていた。


 緩んだ空気の中へ、猟師頭は、火の粉を落とすように続けた。


「で、旦那がた。渡りの途中ってことは、行き先か、帰り先があるってことだ。そいつの台所は、どこかには、ある。儂が聞きてえのはそこでさ。——あの台所は、どこだ。台所の主は、あいつ一頭か」


 書きつけの筆が、止まった。


「番いはいるのか。仔は。ああいうのが年に一度でも仔を産む生き物なら——」


「よさんか」


 誰かが遮ったが、遅かった。言葉は落ちた。群れ、という一言を誰も口にしないまま、全員がそれを頭の中で転がしている、独特の静けさが講堂を満たした。


 その静けさの底で、猟師頭は最後にもう一つ、誰にともなく言った。


「それとな、旦那がた。儂ら猟師の間にゃあ、鉄の掟がひとつある。仕留められねえ獲物は、傷つけるな。手負いってのは、獣を一番剣呑にする。……お宅ら、砲で、掠らせなすったろう」


 この一言は、議事録に載らなかった。載せなかった者の気持ちは、ヴァリクにもよく分かった。


---


 東からの急使が王都に着いたのは、鱗の綱引きが決着へ向かい、聴取会の報告書が「当該獣は通過個体と思料される(ただし——)」という歯切れの悪い一文を抱えて棚に載った、ちょうどその頃である。


 使者は、ブラムという名の、中年の荷駄引きだった。ハルデンなる東端の町から、ひと月、馬を乗り継いできたという。携えた公文書は尚書局で開封され、一読され、回覧され、そのたびに同じ顔をさせた。


 ——東方に前例なき大規模な異変あり、詳細調査中。


「……で?」


「以上にございます」


「以上とは何だ。異変とは何だ」


 かくして荷駄引きは、尚書局の一室で、都合三日にわたって問われることになった。ブラムは正直な男だった。正直に見たままを語り、語るほどに役人たちの顔は渋くなった。


 曰く。夜中、東の平原で光と地鳴りがあった。四半刻ほどで已んだ。夜が明けたら、平原に森が生えていた。地平の右から左まで。前の日まで、何もなかった場所に。


「一夜で、森が」


「へえ」


「森というのは、あれだぞ。木が、何百、何千と」


「へえ。何千どころじゃきかねえです。儂は断崖の上から見ましたで。町の連中もみんな」


 役人たちは、順当な問いを順当に重ねた。見間違いではないのか(町の五千人が同じものを見ております)。前からあった森ではないのか(セレクの平原に木は生えません、生えないから灰色なんで)。酒は(その晩は呑んでおりません。呑んでりゃよかったと思っとります)。


 次いで、役人たちは合理の側から攻めた。ベルガナの仕業ということはないか——三十年前の講和相手が、東の空白を回り込んで何かを。地中の気の噴出ではないか——学芸院の紀要にある、沼気の類が大規模に。あるいは新手の干拓か植林か、つまり人の手の——。


 どの筋書きも、「一夜で」の前で折れた。人の手は、一夜で地平を森にしない。できる国があるなら、その国は森なんぞ生やさずに世界を獲っている。


 三日目、上座の老尚書が、初めて口を開いた。それまで一言も発さず、ブラムの答えだけを聞いていた老人である。


「使者どの。最後に一つ。……そなた、東で、空を飛ぶ大きなものを見なかったか」


 部屋の空気が、わずかに張った。その場の全員が、同じ連想の上に三日間座っていたのだ。東の異変。東から(と言う者もいる)来た獣。


 ブラムは、きょとんとして、首を振った。


「飛ぶもの? ……鳶なら、飛んどりましたが」


「大きなものだ。途方もなく」


「いえ。儂の見た限りじゃあ、何も。……あの、それが何か」


 老尚書は答えず、ただ「ご苦労だった」と言った。


 後にヴァリクは、この問答の顛末を、学芸院のローデン老——溶けた胸壁を削って「温度の話」をした、あの万象学者である——から又聞きすることになる。老学者は面白くもなさそうに言った。


「使者は異変の翌る朝に町を発っておる。獣が王都に現れたのは、その八日も九日も後だ。仮に——仮にだぞ——獣があの森から出てきたのだとしても、使者が発った後に飛んだのなら、使者は見ておらんで道理よ。つまりあの『見ておりません』は、繋がっておらん証拠にも、繋がっておる証拠にもならん。何の足しにもならん答えだ。……そういう答えばかりが、今この王都には積み上がっておるがな」


---


 尚書局の一室に、王国の東方図が広げられたのは、その数日後である。


 地図は、正確には「東方図」ではない。東が描かれていないから東方図が要る、という話をするための、いつもの王国全図だった。カロンデール、ミュレ谷、そして紙の右端に近い場所にハルデンの小さな印。そこから先は、地図師の慣例に従って淡い灰色に塗られ、優美な飾り文字で「セレク平原」とだけ記され、あとは白い。


 その紙の上に、いくつかの札が置かれていった。


 セルネの丘の位置に、一枚。獣の降りた場所である。


 市壁の東に、一枚。溶けた稜堡。


 紙の右端、ハルデンの印の上に、一枚。一夜の森。


 それから、街道沿いに、小さな札が二つ。これは聞き取りの成果だった——聴取会ののち、学芸院の若手が二人、獣の目撃を尋ねて街道筋を回り始めていたのである。ミュレ谷の水車村で「刈り入れの支度の頃、東からでかい鳥が」という話が採れ、さらに一つ手前の宿場で「羊が一斉に騒いだ日があった」という話が採れた。日付はどちらも曖昧だった。農夫は暦で暮らしていない。「刈り入れの前だったか後だったか」を三日がかりで問い詰めて、ようやく「王都の騒ぎより前なのは確かだ」が採れた。その程度の札である。


「……線を、引きたくなる並びですな」


 役人の一人が言った。実際、札は誘っていた。右端の森から、谷筋の目撃を辿り、セルネの丘へ。定規を当てれば一息の、美しい線が引ける。


 老尚書は、長いこと地図を見下ろしていた。それから、言った。


「引かん」


「は」


「引かんよ、まだ。この札とこの札の間を、誰の足も歩いておらん。誰の目も、森から獣が出るところを見ておらん。東に異変がある。それは確かだ。獣がいた。それも確かだ。……確かなのは、そこまでだ」


 役人は不服そうだった。無理もない、とヴァリク——彼はローデン老の随行として、部屋の隅にいた——は思った。二つの途方もない出来事が、同じ月に、同じ東の方角に転がっている。結びつけるなという方が難しい。だが老尚書の言い分の正しさも、砲兵には分かる。当て推量で仰角を決めた砲は、外れるだけならまだいい。大抵は、あらぬものに当たる。


「では、いかがなさいます」


「歩かせる」


 老尚書は、地図の白い場所に、節くれだった指を置いた。


「異変は現にあり、王領(のはずの土地)で起きておる。獣とつながっておろうがおるまいが、調べぬ理由が一つもない。東へ、人をやる。測る者、記す者、護る者。……学芸院は、東方図の空白を埋めたいと五十年泣いておったな、ローデン」


「四十九年ですな」


「よかろう、五十年目に泣き止め。人選と入用の書付を出せ。出納院は儂が口説く」


 こうして、王国が公式に東を向いた最初の決定は、獣への恐れでも、森への好奇でもなく、「調べぬ理由がない」という、老官吏の消去法によって下された。


 散会のあと、ローデン老は巻かれていく地図を眺めながら、隣のヴァリクに、世間話の調子で言った。


「東へやる隊にな、砲兵を一人、借りたいと思うておる」


「……砲は、持って行けませんぞ。あの道では」


「砲は要らん。目が要るのだ。距離と高さを測ることにかけて、この国で砲兵より仕込まれた目はない。それに——」


 老学者は、ちらりとヴァリクの顔を見た。


「おぬし、どうせ毎晩、溶けた石を見に行っておるのだろう。あれは何度見ても、答えぬぞ。……東のは、少なくともまだ、誰も問うておらん。問うておらんものを見に行くほうが、いくらか建設的というものだ」


 ヴァリクは、すぐには答えなかった。


 ただその晩、当直で三枚の鱗を検めながら、彼は久しぶりに、射表でも当直表でもないものを頭の中で繰っていた。王都からハルデンまで、馬車で三週間強。荷を絞れば。道が保てば。――距離の勘定は、砲兵の習い性である。それが着弾までの距離ではなく、出発までの距離であることだけが、これまでと違っていた。

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