↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/12

第一話 空の獣

 レンス・ヴァリク(34)は、王都カロンデールの東稜堡に勤める砲兵士官である。


 砲兵士官という肩書は響きこそ勇ましいが、実態は算術と帳簿の人である。ヴァリクが日々やっているのは、砲身の内側の錆の点検、火薬の乾き具合の検分、装薬量の記録、そして射表——距離と仰角と装薬の対応を刻んだ、砲兵の聖典——の写しの管理だった。王都の重砲が実戦で火を噴いたのは三十年前のベルガナ戦が最後で、以来この稜堡の大砲は、王の戴冠日に空砲で祝砲を撃つ以外の仕事をしていない。


 つまりヴァリクは、戦を知らない砲兵である。この朝までは、それを恥じたことも、幸運と思ったこともなかった。


 その朝、影が市を渡った。


 最初、ヴァリクは雲だと思った。石畳の上をすっと流れていく大きな翳り。だが雲にしては速く、輪郭が固かった。次いで、市のほうから音が来た。悲鳴という言葉では足りない。十万人の都市が一斉に息を呑み、次の瞬間一斉に吐き出した、地鳴りのような人声だった。


 見上げて、ヴァリクは見た。


 翼だった。翼の間に胴があり、胴の先に首があり、長い尾が空を掃いていた。大きさの見当がつかなかった。空を飛ぶものの大きさを測る訓練を、ヴァリクは受けたことがない。誰も受けたことがない。ただ、それが市の上空を横切る間、通りという通りで人が転び、馬が棒立ちになり、大灯座の鐘が誰の指図でもなく乱打され始めるのは見えた。


 獣は、市を攻撃しなかった。


 一度だけ市の中心の上でゆるく旋回し——後にこの旋回は百通りに解釈されることになる——それから東郊へ滑るように降りていき、市壁から半里と離れていないセルネの丘、羊飼いと処刑台のほかに用のない裸の丘の頂に、降り立った。


 そして、動かなくなった。


---


 午後、東稜堡の物見台は将校と役人でごった返した。


 丘の上の獣は遠眼鏡でよく見えた。翼を畳んで伏せると、それは奇妙に静かな眺めだった。岩山に赤銅色の巨岩がひとつ増えた、と言えなくもない。時折首をもたげて羽づくろいのような仕草をし、また伏せる。


「……で、あれは何なのだ」


 誰かが言い、誰も答えなかった。


 鳥ではない。それだけは全員の一致するところだった。竜、という言葉は早くから出ていた。空を飛び、火を吐くとされる大きな獣。姿かたちの符合を否定する者はいなかった。世界は広く、地図の空白は多く、海の向こうからは毎年のように見たこともない獣の皮や図譜が届く。知らない大きな生き物がまだいること自体は、この時代の教養人にとって驚くには当たらない。


 揉めたのは、そこから先である。竜と呼ぶことは、聖灯教の写本に描かれるあの竜——終末の章で本源の炎を騙る、あの寓意の獣——と同じものだと認めることか否か。同席していた灯堂付きの司祭は「軽々な同定は慎まれたい」と繰り返し、軍務局の役人は「では書類に何と書けばよいのか」と繰り返した。獣の名を決める会議は、獣が何であるかではなく、名がどんな意味を運んでしまうかを巡って空転した。


 議論の間にも、市からは続々と報せが上がってきた。東門周辺の街区から住民が勝手に逃げ出し始めていること。逆に、獣を一目見ようとする野次馬が城壁に鈴なりになりつつあること。大灯座が臨時の祈りを立て、座主が「灯し手の御心を軽々に論じてはならない」という、どうとでも取れる声明を出したこと。穀物相場が昼までに一割五分跳ねたこと。


 夕刻、軍務局からの指令が稜堡に届いた。ヴァリクはその文面を読む立場になかったが、内容は翌朝までに全将校の知るところとなった。指令の要旨はこうである。


 ——当該獣は首都近傍に滞留し、市民の安寧と物流を著しく害している。よって歩兵二個中隊および猟兵をもってこれを駆逐する。目的は排除にあらず退去である。害獣駆除の要領に準じ、まず威嚇をもって追い立て、然る後——


 害獣駆除。


 その言葉に、物見台の空気はいくらか緩んだ、とヴァリクは記憶している。戦ではないのだ。相手は軍ではなく、獣である。獣ならば、狼だろうが熊だろうが、追い立てて山へ帰すのは人の側の千年来の仕事だ。規模が違うだけで、建て付けは村の熊追いと同じ。松明と音と、いざとなれば鉛玉。人はいつもそうやって、獣に人の領分を教えてきた。


 城壁の砲には、支援待機の命が下った。装薬を込め、丘へ向けて据えておくこと。ただし発砲は厳に統制下に置くこと。


 ヴァリクは夜のうちに自分の担当する四門を丘へ向け、射表を繰って、丘の頂までの距離に対応する仰角を出し、砲ごとに楔を噛ませた。慣れた作業だった。楔の位置に印を付け、装薬を検分し、明け方前には仮眠さえ取った。


---


 翌朝は薄曇りだった。


 二個中隊は夜明けとともに東門を出た。長槍とマスケットの混成、およそ四百。それに角笛と大太鼓の鳴り物が付く。城壁の上からは、隊列が街道を離れ、丘の裾野に散開していくのがよく見えた。教本通りの、美しい散開だった。


 ヴァリクは自分の砲の傍らで、遠眼鏡を覗いていた。


 獣は、隊列が裾野に達する前から首を上げていた。


 鳴り物が始まった。太鼓と角笛、四百人の鬨の声。風に乗って、城壁までも届いた。獣を追い立てるための、大きな大きな熊追いの音。


 獣は立ち上がり——翼を広げた。


 城壁のどこかで歓声が上がった。飛ぶぞ、逃げるぞ、と。ヴァリクも一瞬そう思った。広げた翼は威圧的だったが、威圧して去るのなら、それは駆除の成功である。


 裾野で、誰かが撃った。


 斉射ではなかった。ぱらぱらと、堪えきれずに散発した数発。距離からいってまず届いていない。届いていたとして、あの巨体に鉛玉である。


 だが、獣には届かなくても、音は届いた。


 獣の首が、隊列のほうへ向いた。ゆっくりと、初めて興味を持ったように。それから胸が大きく膨らむのが、遠眼鏡越しにはっきり見えた。ふいごが空気を吸うように。


 次の瞬間、丘の裾が光った。


 音は少し遅れて来た。雷鳴を長く引き延ばしたような、布を裂くような轟きだった。光は帯になって裾野を薙ぎ、帯の通った場所から黒い煙が壁のように立ち上がった。


 遠眼鏡の中で、散開していた隊列の右翼が、なくなっていた。


 燃えている、のとも違った。火事は燃え広がるものだ。それは既に燃え終わっていた。一呼吸の間に。帯の外の兵が算を乱して逃げ出すのが見えた。帯の中からは、誰も出てこなかった。


 城壁の上は、静まり返っていた。


 その静寂を破ったのは、稜堡の指揮所から駆けてきた伝令の、上ずった声だった。


「砲撃支援! 全砲、撃ち方——」


 命令として、それは正しかった、と後になってもヴァリクは思う。味方の部隊が目の前で焼かれた。城壁の砲は味方を支援するためにある。据え付けは済み、仰角は取れ、装薬は込めてある。撃たない理由を、あの瞬間に挙げられた者はいないだろう。


 東稜堡の十二門が、三十年ぶりに実弾を吐いた。


 轟音と白煙。数拍おいて、丘の頂とその周辺に着弾の土柱が立った。一発が掠めたのか、獣が甲高い声を上げた。それは城壁の砲兵たちに、あの朝はじめての、そして最後の高揚をもたらした。届く。当たる。あれは撃たれれば痛がる、血の通った的だ——


 獣が、飛んだ。


 そして、こちらへ来た。


 ヴァリクの職業人生は、その後の十数える間に終わった、と言っていい。正確には、彼の拠って立つ学問が終わった。


 砲は、旋回が遅い。数人がかりで尾栓側を持ち上げ、少しずつ回す。仰角は楔の抜き差しで変える。どちらも、地上をゆっくり動く敵、あるいは動かない城壁を相手にするための仕組みである。射表のどの頁にも、頭上、という欄はない。天頂へ向く砲は存在しない。存在する必要が、昨日まで無かった。


 獣は市壁に沿って低く飛び、稜堡をひとつずつ、順に潰していった。


 選んでいた。それだけは、間違いなかった。市街には一度も火を向けなかった。家々の屋根を掠めて飛びながら、火を吐いたのは砲座の上にだけだ。北稜堡が光に包まれ、次いで河岸の砲台が包まれた。順番が近づいてくる。ヴァリクの周りでは、砲手たちが必死に砲を回そうとしていた。回して、どうなるものでもなかった。的は秒ごとに方角と高さを変える。楔を一枚抜く間に、空の反対側にいる。


「退避! 砲座を捨てろ、退避!!」


 自分がそう叫んだのか、隣の士官が叫んだのか、ヴァリクは覚えていない。覚えているのは、胸壁の陰の階段へ転がり込んだ直後、世界が白熱したことだ。熱波が石段を舐め、息が吸えなくなり、耳の奥で自分の血の音だけがした。


 それが、ヴァリクの見た最後の火だった。


 獣は、沈黙した砲台の上をもう一巡し——どの砲座からも、もう誰も撃たなかった。撃てる砲が残っていなかったし、撃とうとする者も残っていなかった——それから高度を上げ、二度、三度、大きく羽ばたいて、来た時と同じように市の空を渡り、去った。


 去った方角は、東だったと言う者が多い。西だ、南東だ、と言う者もいた。市の空で見失ったきり分からん、というのが一番多かった。追って確かめる手段は、どのみち人の側に無かった。


---


 人的被害は、駆逐部隊の戦没百三十七、城壁の砲兵と役夫の死者四十二、市民の死者は転倒と将棋倒しによる十一。市街への延焼は、なかった。


 王都は、無事だった。少なくとも帳簿の上では。十万の都市で百九十人。三十年前の戦役の、一会戦の端数にも満たない。


 だが、東稜堡に立てば、帳簿にない数字が見える。


 ヴァリクは今もほぼ毎日、そこに立っている。彼の四門があった砲座は、今は誰も近寄らない見世物である。花崗岩の胸壁が、飴細工のように流れて固まっている。表面は釉薬をかけた陶器のようにてらてらと黒く光り、朝日を受けると濡れてもいないのに濡れて見える。砲そのものは、砲の形をしていない。三千斤の青銅が、台座の上で潰れた蝋燭のように裾を広げ、砲口だった穴の名残が、叫んでいる口のように空を向いている。


 そして、境目がある。ヴァリクが何より繰り返し見てしまうのは、そこだった。流れた石と、無事な石の境目。それは指一本の幅で切り替わっている。焦げ、というものがほとんど無い。火に炙られたのではなく、光の当たった場所だけが煮えたのだ。境目の無事な側には、あの日の朝ヴァリクが立てかけた掃除桿が、焦げ目ひとつなく立てかけたままになっている。


 視察に来た学芸院の万象学者は、その境目に膝をつき、流れた花崗岩を小刀で削り、長いこと黙っていた。それから、随行の書記にではなく、ほとんど独り言として言った。


「……王国のどの炉も、この温度に届かない。ガラス工の炉も、造幣の坩堝も。届かない温度が、野天で、一瞬で出ている。儂は温度の話をしておるのだぞ。分かるか、これの厄介さが」


 ヴァリクには分からなかった。だが、その学者が帰り際、溶けた砲を長靴の先で軽く小突き、「これは戦利品ではなく標本だな」と呟いたのは、妙に腑に落ちた。


 そう。あれは戦ではなかったのだ。


 軍務局の公式の報告書は、当該事案を「大型有害獣による災禍、および同獣の駆逐」と分類した。戦闘詳報の書式では書けなかったからである。敵情、の欄に書くことがない。敵は作戦目的を持たず、陣形を持たず、こちらの降伏も講和も受け付けない。そして結論の欄には、こう書くしかなかった——所期の目的(当該獣の退去)は達成された。


 嘘ではない。獣は、去った。丘は空いた。街道は再開された。害獣駆除としては、成功なのである。百九十人の死と、王都の全砲力と引き換えの。


 市井では、あの獣を呼ぶ名がいまだに定まらない。「空の火」と呼ぶ者、「赤い翁」と呼ぶ者、教会の絵物語から採って「終末の使い」と呼ぶ者。大灯座は「彼のものへの軽々な命名は慎むべし」との見解を出したが、これは命名の混乱に一枠加えただけに終わった。名が無いものは、済んだことにできない。そして、あれに付けてよい名を、この国は、まだ持っていない。


 ただ、城壁の子供たちだけは、あっさりしたものだった。彼らは溶けた砲座を「竜の台所」と呼んで、衛兵の目を盗んでは黒光りする石を触りに来る。竜。大人たちが、その名の運ぶ意味を測りかねて避けている名。


 結局のところ、いちばん正確なのは子供たちなのかもしれない、とヴァリクは思う。


 彼らはまだ、名前に写本の続きを読まない。空を飛び、火を吐く、大きな獣。ならば竜。それだけのことだと。終末が来るかどうかは、名前の側の都合ではないのだと。


 そして、ヴァリクが夜ごと考えるのは、実のところ獣そのものではない。


 あれは、どこかから来て、どこかへ帰ったのだ。渡り鳥に北の営巣地があるように、熊に山があるように、あれにも棲み処がある。それは獣というものの道理であって、恐れるような考えではない。恐れるべきはその先だ——棲み処があるなら、あれは一頭とは限らない。


 番いがいるのか。子は。群れは。あの丘は、奴の縄張りの端なのか、それとも旅の途中の止まり木に過ぎなかったのか。害獣を語る言葉で考え始めると、問いは猟師の問いになり、そして猟師の問いには、答えられる者が一人もいない。棲み処の見当すら付かないのだから。地図の白い場所なら、この国の東西南北、どちらを向いても残っている。


 その頃、東の辺境から王都へと、一人の急使が街道を上っていた。


 携えた公文書の文面は「東方に前例なき大規模な異変あり、詳細調査中」——何も伝えていないに等しい一文である。ただし運び手の荷駄引きは、あの朝のハルデンにいた。断崖の上から、一夜で生えた森を自分の目で見た男である。見たままなら語れる。だが、それが何なのか、なぜ生えたのか、今どうなっているのかと問われれば、答えは全部「分からない」しかない。


 何も知らない使者より、少しだけ知っている使者のほうが、届いた先で厄介の種になる。むろん本人は、そんなことは知らない。彼はただ、途方もない話を役人に信じてもらうにはどう言えばいいのかを、鞍の上でひと月、考え続けている。


 その一文と、その証言と、名前の定まらない空の獣とが、王都の会議の席で同じ一枚の地図の上に置かれるまでには、まだしばらくの月日がかかる。

ドラゴンは強ければ強いほど良いものとされる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。