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第十六話 写しと仮の名

 帰還の晩から、レンの部屋の灯りは、消えなくなった。


 監督府の物置を片付けた三畳ほどの画室である。灯りは魚油の灯明が二つ。魚臭くて、煤が出て、炎の色が黄色い。あの夜の、あの月の白を思い出すための灯りとしては、これ以上ないほど不向きだった。不向きな灯りの下で、レンは描いた。


 敵は、忘却である。八枚の習作は構図と寸法の覚えにはなるが、色は、あの場で置けなかった。月の白。傘の真珠色。星の透けた膜の、あの滲み。色の記憶は日を追って薄れ、こちらの世界の色に上書きされていく。レンは「月の白のための白」を求めて三日で手持ちの白を使い果たし、四日目には鉛白を求めて精錬の炉番のところへ日参する画工になった。七度の試作の果てに、白に微かな青と、それより微かな緑を沈めた、名前のない色ができた。炉番は見本を見て「……で、これは何に使う白で」と訊き、レンは「月です」と答え、炉番はそれ以上訊かなかった。この町の職人は、この一年で、それ以上訊かない技術を身につけている。


 語りは、夕食の席に限る——これも、誰が決めたのでもない町の取り決めになった。手の疲れを抜く四半刻、乞われれば、匙を置いて、ぽつりぽつり。聞き手が息を呑むのは決まって月と傘で、レンが夜ごと格闘しているのは星の透け方だという食い違いはあったが、語りになるものと絵になるものは別の生き物なのだと、レンはもう心得ていた。


 町の側の受け止めは、要するに、良い話を聞いた、である。夕食の語りは翌日の仕事場の話の種になり、種は数日で語り尽くされ、次の夕食でまた新しい細部が拾われる。賄いのマルテ婆などは、盆を置きに画室へ入って描きかけを見物し、「……こりゃあ、たいしたもんだねえ」と長いこと見入って、帰りしなに「月ってのは、そんなに白いもんかね」と一つだけ訊いて、出て行った。それで、それきりである。見たことのない海月の話は、面白い。面白いが、婆の朝晩の祈りは、生まれてこの方の祈りのままで、何も変わらない。面白い話と、拝むものとは、別のものなのである。町の大方にとって、あれはまだ「上の人たちが熱を上げている、遠い沖の話」だった。


 その熱の実際の高さを、町は少々、見くびっていたのだが。


---


 その晩の集まりは、老司祭の言い出しで開かれた。


 あの晩の空の写しを取った若い衆の、星の図をわしも見たい——この希望が観測台に伝わり、監督府の一室に卓が設えられた。ユリスと星図。ローデン老。ファルク。老司祭。それに、皆の顔を描きたいからと隅に座り込んだレンである。


 レンに、学は無い。議論の中身は、正直、三割も分からない。ただ、顔は読める。十年、人の顔を描いて食ってきた。顔と、手と、湯呑の減り方。それだけ見ていれば、場で何が起きているかは、字が読めなくても読める。


 最初の半刻は、勉強会だった。ユリスが星を説明し、老司祭が問い、湯呑が一巡した。潮目が変わったのは、ユリスが図の端を押さえて、思い詰めた声を出してからである。


「——司祭様。あの空は、教えの上では、何なのでしょう」


 湯呑が、四つとも、止まった。


「私は、灯し手を疑いません。疑わないからこそ、分からないのです。あの空の星は——誰が、点したのですか」


 それからの一刻を、レンは生涯、忘れないだろうと思う。中身ではない。中身は分からなかった。忘れないのは、四人の顔である。


 まずユリスが、観測者の仮説です、と断って、何やら長いことを言った。レンに拾えたのは骨だけである。曰く、あの空は、最初の火より前の空ではないか。教えは火より前について、ほとんど何も書いていないのだから、と。


「一句きり、ということは」


「書いてない、ということじゃな」と老司祭。責める声ではなかった。むしろ、認める声だった。書いてないんじゃ、火より前のことは。わしも六十年読んできたが。——この年寄りの司祭が、若造の際どい仮説を頭ごなしに潰さない、ということに、レンは少し驚いた。驚いて、その顔を描き留めた。


 次はローデン老だった。学者の仮説だ、無作法は許せ、と前置きして、これも長いことを言った。骨はこうだ。世界が一つだと、どの帳面に書いてある? あれは別に造られた世界の夜が、湖に窓を開けているのかもしれん、と。ユリスが、それは際どすぎます、我らの世界が特別でなくなります、と食い下がり、老学者は片眉を上げた。


「特別でないと、困るかね」


「困りは、しませんが……寂しゅうは、あります」


 場が少し笑った。レンはユリスの顔を描いた。正直、というのは、ああいう顔のことだ。


 ファルク司祭は、長いこと、自分の指を見ていた。


 この人の顔が、レンには一番読めなかった。何か言いたいことがあって、言わないことに決めている顔——そこまでは読めるのだが、なぜ言わないのかが読めない。やがて司祭は、審査方の作法で一つ、と前置きして、見えるものが在るものとは限らない、あれは何ものかが見せている像かもしれない、という説を出した。出し方が、妙に手際よかった。用意していた品を棚から出すような手際で、レンは、この説は司祭の本命ではないな、と思った。思ったが、むろん黙っていた。


「像なら像で、次の問いが来るぞ。誰が、何のために見せとる」


「来ます。その問いが来ることまで含めて、卓に置いておきます」


「ずるい置き方をするの、あんたは」


 最後が老司祭で、これは仮説というより年寄りの連想じゃがの、と断って、彼岸の話をした。眠って、還ってくる。痛みなく。わしらの言葉で、それに一番近いのは、彼岸の作法じゃ——。ユリスが恐る恐る、では生きて還った九人は何なのです、と訊き、老人はあっさり、教えは想定しとらんの、しとらんからわしも困っとる、と認めた。


 説は四つ出て、四つとも、誰にも降ろされなかった。降ろされないまま、卓は次の周回に入った。各説の粗を、言い出した本人も一緒になって探すのである。レンは途中から、これが喧嘩にならないことのほうが不思議になってきた。王都の画工仲間なら、構図の流儀の違いだけで三日は口を利かなくなる。この卓は、際どい話をしているはずなのに、誰の湯呑も乱れない。むしろ全員、楽しそうなのだ。とりわけ老司祭が、一番楽しそうだった。


「いやはや」と、老人は何度目かに言った。「六十年、写本を読んできてな。火より前のことが書いてない、というのに、今夜初めて気づいたわ。読んどるつもりで、読んどらなんだのう。書いてある場所しか、読めんもんじゃな、人間は」


 気づいて悔しがるでも怯えるでもなく、老人はそれを、掘り当てた面白い石ころのように卓に置いた。置かれた石ころを、学者二人が嬉々として突つく。レンは四人の顔を順に描きながら、この場の空気に一番近いものを、記憶の中から探した。見つかったのは、意外にも、下町の飯場だった。授かり実の話を新顔に語るときの、あの古株たちの顔。誰も答えを持っていない話を、持っていないまま転がすときの、あの顔である。


 議論は夜が更けるほど熱を増した。途中、説を呼び分けるのに星の呼び名が要るの要らないので小さな悶着があり(ユリスの仮名——燭台、南の鉤、孤児——に老司祭が目を光らせ、名には拝む名と測る名があって測る名は帳面の中で許す、という裁定で収まった)、白湯が三度注がれ、レンの紙は表裏とも顔で埋まった。


 そして夜半近く、ファルクが、懐からもう一冊、別の帳面を出したのである。


「……空の話ばかりして参りましたが。私の帳面で、空と同じだけ場所を取っているものが、もう一つ」


 開かれた頁を、レンは隅から覗いた。日付と方位の、几帳面な行列。虹の玉の記録だった。目撃五十七件、と司祭は言った。そして一件だけ、声に出して読んだ。


「——発光体一、当方ノ認識ニ応ジ、色ヲ変ジ、形態ヲ解キ、人ノ形ヲ現シ、退避セリ」


 卓の温度が、また変わった。


 ここから先の議論は、前の半分も進まなかった。進まない理由は、レンにも分かった。空の話は、遠い話だった。遠い話は、伸び伸びと議論できる。玉の話は、近いのだ。朝の岸を歩けば会える。人足は見た日は運がいいと言って、もう慣れている。慣れている隣で、学者と司祭は、慣れられずにいる。あれは人の形をしていた。こちらに気づいた。隠れた。——魂ならば誰の魂か。御使いならば何の使いか。ただの生き物ならば、なぜ人の形か。ローデン老が、人の形に見えるだけで意味は無いのでは、と学者らしいことを言い、ユリスが、隠れるには内側が要ります、と観測者らしいことで返し、議論は往復し、往復するだけで、前へは進まなかった。


 締めたのは、老司祭の、こういう述懐である。


「……魂が、岸で日向ぼっこをしとって、人間と目が合うて、慌てて隠れる。——六十年説教をしてきたがの。これの説教のしようが、わしには、とんと分からん」


 誰も笑わなかった。レンは四人の顔を順に見て、それから、覚えたての整理を頭の中でした。絵描きの整理である。空の話、玉の話、眠りの話。三つは同じ画面に入っているのに、遠近が、合っていない。それぞれ別の場所に立っていて、一枚の絵に収める視点が、まだ、どこにも無いのだ。視点の無い画面は、描けない。描けない画面を前にした画家の顔を、四人とも、していた。


 散会の間際に、ローデン老が伸びをして、身も蓋もないことを言った。


「しかし諸君、今夜の議論、面白かったがな。これ、報告書には書けんぞ。儂の学術報告に『御許の庭の縁』とは書けん」


「載らんの」老司祭が頷き、それから、ゆっくり付け足した。「載らんが——いずれ、載せろと言うてくる者らが、おるじゃろうの。大灯座じゃよ。絵が着く。報告が着く。あちらが、この土地の出来事の、教えに関わる目方に気づいたら、何かを寄越す。……ファルク司祭。あんたは内側におった人じゃ。何が来る」


 ファルクは指を折りながら、短く答えた。審査官なら、検める異端がこの町には無いので、手ぶらで帰る。学僧の使節なら、持ち帰る結論がまだ無い。それから三本目の指のところで、少し迷い、迷ってから言った。


「——灯を、持って来るかもしれません。分灯です。この町は人が増えました。灯堂の増設は、教務の上ではとうに妥当です。大灯座が東方への最初の応答に、審問でも詮議でもなく、灯を分けることを選んだなら——それは、この土地の出来事の前で教えは灯りを灯す、という意思の表明になります」


 レンには、この分灯とやらの重みは分からなかった。分からなかったが、それを聞いた老司祭の顔が、その晩で一番、動いたのは分かった。


「……分灯の儀なら、火を運ぶのは、大灯座の奥の御方じゃの」


「は。仕来りでは」


「ほう」老人は、遠くを見る目になった。「長生きは、するもんじゃの」


 誰の話か、レンには分からない。分からないまま、その遠い目を、紙の最後の余白に、描き留めた。


 その晩、自室に戻ったファルクは、卓に私記を広げた。公式の半頁——所見:本官の語彙の外に在り——は書き上がっている。添える私記は七枚で止まっていた。司祭は筆を取り、今夜の卓を、発言者の名を伏せて書き留め始めた。四つの説。玉の問い。書いてある場所しか読めんもんじゃ、という老人の言葉。どの書式にも載らない話を載せる紙は、王国に、これ一つしかない。


 私記は、十二枚になった。


---


 習作八枚を巡る綱引きは、その合間に、静かに片が付いた。


 言い出したのはグレルである。八枚は国費の調査行で国の画工が職務として描いたもの、よって記録の一部であり王都へ送られるべし——技師の理屈は明快だった。レンの返答も明快だった。「送れば、本画が描けません」。


 落とし所は、グレルが引いた。原画は本画完成まで画工の手元に置く。王都へは画工自身の手で起こした写しを送る。写しである旨を明記して。本画完成の暁には、原画八枚と本画の扱いを改めて協議する——。レンは頷き、二十日かけて八枚の写しを起こした。写しながら、原画の線の震えを均すべきか悩み、結局、震えごと写した。震えは、あの夜の寒さと、あの夜の自分の膝のものだ。均せば、嘘になる。


 この写し作業の最中に、画室を訪ねてきたのが、モレン伯である。


 老伯は椅子を断り、立ったまま、写しかけの八枚を一枚ずつ、長いこと見た。それから、絵ではなくレンに訊いた。


「……この絵は、これから、どこへ行く」


「写しは王都へ。原画と本画は——協議次第、だそうです」


「協議、な」伯は鼻を鳴らした。「画工どの。協議というものの決まり方を教えてやろう。声の大きい順だ。王都には、大きい声が揃っとる。国庫、大灯座、学芸院。この町の声は、あちらまでは届かん。——だからな、届く形で、置いていけ。本画が仕上がったら、写しでいい、一枚、この町に残せ。掛ける場所はわしが都合する。ハルデンで起きたことの絵が、ハルデンに一枚も無いというのはな、十年後には誰も気にせん。だが六十年後に、効いてくる。わしは、質に入った町の六十年を見てきたから、分かる」


 レンは、この老人の言う六十年の中身を知らない。知らないが、頷いた。絵描きの直感として、この老人の言う「効く」は本当だろうと思ったのである。


---


 東便の荷が組まれたのは、月の替わる前の週である。


 グレルの調査報告、正本一部。学術報告、別綴じ一部。星図の裏面の写し(仮の名入り——測る名である、と欄外に断り書きがある。書かせたのは老司祭である)。レンの写し八枚——油紙に包み、板に挟み、「画、八葉。原画ニ非ズ、画工自身ノ手ニ成ル写シナリ」の但し書きを添えて。


 そして、ファルクの半頁と、私記十二枚。


 荷は木曜の朝、東便の馬車に積まれ、直りたての街道を西へ発った。写し八枚と、半頁と、十二枚。それらが王都で何を起こすかを、送り出した側の誰も、まだ知らない。


 画室の灯りは、その晩も、点いていた。

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