第十五話 月と砂時計
白の縁まで十間、というところで、グレルは櫂を止めさせた。
最後の点呼である。綱よし。砂時計よし。合図の鐘よし。眠った者が出た場合の縛り方、引き方、順番——復唱。九人の声が順に上がり、最後にグレルが言った。
「観測は再訪できます。再訪できるのは、帰った者だけです。……刻限で、帰ります。では」
櫂が入った。舳先が白に触れた。
触れた途端、船が、すっと引かれた。テオの膝が覚えている、あの流れである。だが今回は、艫で綱が張り、繰り出しの滑車が軋んで、船の速さを御した。引く力と、繋ぐ力。二つの力の間で、ガルテはゆっくりと、白の中へ滑り込んでいった。
乳色が、視界を閉ざした。
音が、消えていく。水音が遠のき、滑車の軋みが綿にくるまれ、隣の男の息の音さえ薄れて——潜るようだ、とテオは思った。水に潜るとき、世界の音がああやって、膜一枚向こうへ行く。
乳色が、青に沈んだ。青が、藍に暮れた。
そして、九人は、夜の中にいた。
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星は、点ったのではなかった。最初からそこにあったものが、見えるようになった——そうとしか言いようのない現れ方で、頭上から水平まで、視界の全部が、星だった。
誰かの手から、測鉛が落ちた。落ちた音が、しなかった。船板に当たったはずの音を、夜の静けさが吸ってしまった。
湖面は、凪ぎきって、鏡だった。空の星をそのまま映し、船は星と星の間に浮かんでいた。上を見ても星、下を見ても星。舷から覗き込んだニクラが、短く息を呑んで身を引いた。覗いた水の底に、空があったのである。落ちる、と体が言ったのだ。水面より深い場所に星が見える、ということに、人間の平衡は備えていない。
「……櫂を、止めるな」
水夫長の声だけが、低く、通った。九人のうち、手を止めなかったのは操船の二人だけである。船乗りは、世界がどうなろうと、舵と綱から手を離さない。離さないまま、水夫長は一度だけ空を仰ぎ、仰いだことを恥じるように、すぐ目を戻した。戻す前の一瞬、彼が何を探したかを、後にユリスが言い当てている。北である。海の男は、空を見れば北を探す。二十年、体がそう出来ている。
北は、無かった。
ユリスは船の中央で、星図を広げていた。王都の天文台が五十年かけて磨いた、王国で最も精密な星の地図である。若い博物学者は、図と空とを、往復した。往復して、往復して、手が止まった。
「……先生」
「うむ」
「一致する星座が、ありません。一つも」
「見落としではなく?」
「先生、あれを」ユリスの指が、天頂近くの一際明るい並びを差した。「あれだけ明るい並びに、王国の空なら、名の無いはずがないのです。無名の一等星というものは、存在しない。あれには、名がありません。私が知らないのではなく——誰も、まだ、名を付けていない星です。それが、空の端から端まで」
でたらめな空、ではなかった。それが、なお恐ろしいところだった。星々には明るさの序列があり、淡い光の帯が空を斜めに横切り(天の川に似て、天の川ではない)、瞬く星と瞬かぬ星があり——空として、完璧に、成立していた。成立した、知らない空。どこかの空の写しなのか。どこでもない空なのか。
「これは、どこの空だ」ローデン老が、誰にともなく問うた。
「どこでもない空です」
「どこでもない空、というものが、あるか」
誰も答えなかった。答えの代わりに、ユリスは星図を裏返し、白紙の裏面に、知らない星座を写し始めた。名の無い星に、誰かが最初の線を引く夜だった。
そして、月である。
望の月が、天頂近くに、あった。大きい、とは聞いていた。実物は、大きさより先に、白さで来た。冴えて、研がれて、縁まで硬い白。ユリスは遠眼鏡を向け、覗いたまま長いこと動かず、下ろしてから、低く言った。
「……翳が、違います」
「翳?」
「月の面の、模様です。灰色の翳の形が——王国の空の月と、違う。似てもいません。あれは、私たちの月では、ない」
私たちの月ではない月が、私たちの知らない星々の空に、懸かっている。九人はそれぞれの持ち場で、それぞれの深さで、同じ一つのことを呑み込みつつあった。ここは、霧の中、ではないのだ。霧を境に、こちらは——どこか、別の、夜なのだ。
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それは、月の下から、来た。
最初は、月にかかる薄雲に見えた。雲が、脈を打った。
傘だった。
テオは、二度目である。二度目なら驚かぬかといえば、逆だった。一度目は、恐怖が目を塞いでいた。二度目の目は、塞ぐものなしに、全部を見た。
傘の径は——後にグレルが船体と重ねて目測した数字で——ガルテの五艘分を下らない。灯堂の丸屋根どころではなかった。あれは屋根ではなく、空の一部が生きて動いている、という大きさだった。半ば透きとおる傘は月光を孕み、内側から真珠色に、ゆっくり、ゆっくり、明滅した。明滅の間合いを、ローデン老は懐中の脈取り砂で計った。十六数えて、一打ち。人の脈の四分の一の速さの、鼓動である。
傘の縁からは、月光を紡いだような帯が、幾筋も垂れていた。長さは、測れなかった。帯の先がどこで終わっているのか、目で追い切れないのである。帯は風のない夜気の中を、水中の藻のように、ゆるやかにたなびいていた。
そして、星が、透けた。
傘が天を渡るとき、傘の向こうの星々が、真珠色の膜越しに滲み、揺れ、また澄んだ。星の透ける生き物。テオの語ったその一語を、残る八人は今、目で理解した。
音は、無かった。あれだけのものが動いて、無音だった。無音の中で、自分たちの櫂の雫、綱の軋み、九人ぶんの呼吸だけが、場違いに、無作法に、大きかった。人間とは音の出る生き物なのだということを、テオは生まれて初めて、恥のように意識した。
傘の周りには、五つの灯りが従っていた。
灯籠ほどの、丸い、柔らかな光。夢泡である。五つは傘に付かず離れず、気ままに漂い——そのうちの一つが、ふ、と高度を下げて、船のほうへ、流れてきた。
九人が、凍った。
グレルの手が、静かに縛り綱へ伸びた。水夫長の目が、泳ぎ達者二人の位置を確かめた。誰も声を出さず、誰も動かず、泡は、船から二十間——十五間——十間——
——のところで、夜気の向きが変わったとでもいうように、ふわりと、逸れた。
逸れて、昇って、月の光に紛れて、傘の元へ帰っていった。狙いも、関心も、何も無かった。ただの、漂いの綾だった。九人が九人とも、詰めていた息を、音を立てぬように吐いた。船板の上で、テオの膝が、遅れて震え出した。体というものは、頭より正直で、頭より遅い。
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その一部始終の間、船尾で一人だけ、別のことをしている男がいた。
ファルクである。
司祭は、膝の上に書き付けを開いていた。一年分の聴き取りと、二百年前の写しと。灯りは、要らなかった。月と星とで、字は読めた。読めることが、既に、写本の言う通りだった。
——闇には月ありて。
ある。頭上に。私たちのものではない月が。
——月の下を、まどろむものが渡りゆけり。
渡っている。いま、目の前を。音もなく。
——あまたの小さき灯りが従い。
五つ。数えた。五つ。
ファルクは一行ごとに目を上げ、実物を確かめ、また目を落とした。審査官の手順である。文書と現物の照合。十年やった。千巻やった。その手順の行き着いた先で、彼はいま、二百年前の異端者と、同じものを見ていた。
祈ろうとした。灯し手の句が、出てこなかった。灯りの教えのどの言葉も、この夜のためには作られていない——それは一年前、証言を聴いた晩から分かっていたことだ。分かっていることと、月の下でそれを思い知ることとは、別だった。教義の言葉の代わりに口をついて出たのは、写本の、結びの数行だった。声に出すつもりは、なかった。出ていた。
「——これを善しと呼ぶべきか、悪しと呼ぶべきかを、我は知らず。我の知るは唯一つ、それが我らより古い、ということのみ——」
低い声は、無音の夜に、思いのほか通った。隣で顔料を溶いていたレンが、手を止めた。
「……司祭様。いまのは、何のお祈りで」
ファルクは少し黙り、それから言った。
「祈りでは、ありません」
「じゃあ、何です」
「……分からなかった者の、言葉です。二百年前の。——お仕事をお続けなさい。あなたの筆は今夜、この船で一番、正しい仕事をしている」
レンは、続けた。
続けるも何も、止まっていなかったのである。夜に入って最初の半刻で、レンは持ち込んだ紙の三分の一を使った。木炭で構図を七枚。傘と月の位置。帯の流れ。船と傘の大きさの比。星の密度は点で打っていては追いつかず、途中から塗りに変えた。指が黒くなり、袖が黒くなり、乳鉢を膝に挟んで、月の白のための白を手探りで練った。置いてきた半分の顔料のことを、レンは生涯、悔やむことになる。悔やみながら、手は知っていた。色が足りないなら、足りない色で描くしかない。下塗りを十年やった手は、諦め方と、諦めた先の続け方を、知っていた。
これを描くために生きてきた——などという言葉を、レンは思い浮かべもしなかった。そんな暇は、なかった。ただ、砂時計だけが、憎かった。
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砂時計は、グレルの膝の上で、粛々と落ち続けていた。
外の太陽は、見えない。昼の世界の時間は、この夜の中では、あの砂だけが知っている。一刻目の砂が尽きたとき、グレルは静かに言った。「折り返しです。あと一刻で、綱を手繰ります」。
誰も、返事をしなかった。返事の代わりに、ローデン老が咳払いをした。
「……技師どの。月の高度が変わってきておる。傘の明滅と月の位置の対応を取るには、いましばらく」
「星の写しが、まだ半分です」ユリスが重ねた。「この空が二度と同じ配置とは限らない。せめて天頂の一画だけでも」
レンは、何も言わなかった。何も言わずに、描く速さを上げた。発言の代わりに筆で交渉する男である。
グレルは砂時計を見、空を見、それから、船の反対側を見た。反対側には、何も言わない側が固まって座っていた。水夫長。船大工。テオ。ニクラ。四人は綱の傍で、綱の張り具合だけを見ていた。夜に入ってから、実務の四人は、必要なこと以外、一言も発していない。発さない、ということが、彼らの発言だった。畏れ多い、という言葉すら、ここでは口に出すのが畏れ多い。ただ、早く、昼へ帰りたい。帰りたいという顔を、学者たちの熱の前で、出せずにいる。出せずにいる顔を、技師は、ちゃんと見ていた。
「——半刻だけ、延ばします」グレルは言った。「半刻です。観測の続きは、次の便で。……次の便は、あります。今日の九人が九人で帰れば、次は、もっと大きな顔をして来られる。順番を、間違えないように」
半刻は、砂の粒のように過ぎた。
ローデン老は明滅と月位の対応を取り終え、ユリスは天頂の一画を写し終え、レンは八枚目の構図の途中で木炭を——置いたのではない。グレルに、そっと、取り上げられた。
綱が、手繰られ始めた。
最初の一手で、ニクラの手つきが速くなりかけた。帰れる、と分かった途端、体が急ぐのである。その手の上に、テオが自分の手を重ねた。
「——ゆっくり手繰れ。ゆっくりで、間に合う」
爺の言葉は、テオの声で、ちゃんと効いた。綱は絡まず、滑車は詰まらず、ガルテは夜を、来たときと同じ速さで戻っていった。
帰り際、テオは一度だけ、振り返った。
月の下を、傘は、渡り続けていた。九人が来たことも、帰ることも、あの夜には、何の跡も残していない。ただ星が透け、帯がたなびき、十六数えて一打ちの鼓動が、誰のためでもなく、打たれ続けている。
藍が青に明け、青が乳色に薄れ、乳色が眩んで——昼だった。
何事もない、腹の立つほど当たり前の昼の光の中へ、ガルテは滑り出た。岸から、音が来た。歓声である。音というものがこんなに大きく、こんなに乱暴で、こんなに有難いものだったことを、九人は白の外で思い出した。
九人が、九人で、帰った。眠った者、ゼロ。ヨスト爺は桟橋で人数を二度数え、二度目を数え終えてから、ようやく煙管に火を点けた。
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その晩、湖岸の焚き火は、いつもより人が多かった。
網の手入れそっちのけで、漁の連中が火を囲んだ。真ん中にテオとニクラ。焼いた魚が回り、話が回った。もっとも、当の二人の口は重かった。見たものを語る言葉が、まだ体の中で落ち着いていないのである。代わりに周りが、聞きかじりで盛り上がった。
「星が下にもあったってなあ。落ちそうにならんかったか」
「なった」ニクラが短く言った。「覗いて、引っ込めた。ありゃあ、覗くもんじゃねえ」
「傘は、そんなにでかいんか。国のガルテの五杯分てのは、ほんとうか」
「五杯じゃきかんかもしれんぞ」テオが言った。「比べるもんが、空にゃ月しかねえんだ。月と比べる生き物の寸法なんぞ、俺ぁ知らん」
火が爆ぜ、しばらく、魚を齧る音だけがした。
やがて、年かさの漁師が、しみじみと言った。
「……なあ。虹の玉ってのもよ、ありゃあ大概、訳の分からんもんだよなあ。触れもせん、掴めもせん、人の形になって逃げよる。あれだって十分、この世のもんじゃあねえ」
「まあ、なあ」
「まあ、なんだがよ。……こうして聞くとなあ。同じこの世の外のもんでも、月と星をまるごと連れて出てくるのと、朝の岸で日向ぼっこしとるのとじゃあ、こう、なんちゅうか」
「格が違う、てか」
「格ちゅうか……派手さよ、派手さ」年かさは、齧り終えた魚の尾を火に放った。「訳の分からんもん同士でもよう、派手なほうが、拝みたくなる。人間、そういう風にできとるんだなあ、と思うてよ」
「そりゃお前、灯堂の献灯だって、でかい蝋燭のほうが効く気がするもんなあ」
「罰当たりを言うでねえ」
「言い出したのはお前だろうが」
火の周りが、ようやく、いつもの調子で笑った。テオも笑った。笑いながら、月の下の傘を思い、それから、朝の岸をふよふよ流れていく虹の玉を思った。派手さは、確かに、違う。違うが——どちらも、こちらに何の用も無いという点では、そっくりの他人なのだった。
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観客席・その十二
……はい。
今夜の主役について、改めて言わせてくれ。深呼吸してから言うぞ。
あの、月と星をまるごと従えて、国家調査団を無言にさせて、司祭さんに二百年前の文句を暗誦させた、あの御方は。
ストレージの、二十円です。
前にも言ったけどな。言ったけど、今夜のあれを観た後だと、改めてひどい。色んな意味でひどい。俺も一瞬、値段を忘れたよ。あの傘が月を渡るの、文句なしに荘厳だった。荘厳だった、そのことと、五枚百円のコーナー出身であることが、俺の中でいまだに握手しない。ちなみにあいつ、キラカードなんだ。フォイル仕様。キラキラなのに需要が皆無だから、キラのまま二十円で、キラのままストレージに埋まってた。それが今、本物の月光でキラキラしてる。何なんだろうな、これ。
で、焚き火の漁師さんらの「派手さが大事」ってやつな。
あのな、皆さん。皆さんが地味扱いしてる朝の岸の虹の玉、あれ、うちのデッキの看板です。五色デッキ組む人間なら分かってくれると思うけど、ああいうデッキの背骨になる一枚でな、俺はあれに四千円払った。しかもノーマル版で四千円。フォイルはもっとした。そのうちキラに差し替えるつもりで、金欠で、ずっとノーマルのままだった。
つまりだ。キラキラ仕様の二十円が月背負って拝まれてて、ノーマル仕様の四千円が岸で「見れたらラッキー」枠。カード屋の棚なら玉のほうがガラスケースで、クラゲのほうが段ボール箱なのに、現地の人気は完全に逆。
……いや、待てよ。
ひょっとしてあの子が地味なの、ノーマル版だったせいか? フォイルで揃えてたら、あの玉、もっとキラキラして——いや、どうでもいいなこの疑問。どうでもいいんだが、一回思いつくと頭から離れないんだよ、こういうのは。誰か否定してくれ。できる奴がいないんだった。
あと、星空の件。ユリス君が徹夜で写してた「どこでもない空」。
あれ、カードの絵です。
イラストに描いてある夜空。あの星の配置は、どっかのイラストレーターさんが締切と戦いながら筆で置いた星なんだよ。ユリス君が王国最高の星図と突き合わせてた相手は、絵描きの夜なべ仕事。名の無い一等星に人類が最初の線を引いた記念すべき夜——の、線の先にいるのは、天文学じゃなくて画材なんだよなあ。……いや、でも「空として成立してる」って見抜いたのは大したもんだよ。成立してるんだ、ちゃんと。あっちも、締切明けのプロの仕事だからな。
絵描きの空を、絵描きが写して帰った夜、ってことだ。レンさんの八枚、俺も早く見たい。
今夜は大入り、満員御礼。
当劇場、明日も通常営業です。




