第十四話 ガルテと命綱
調査船の正式の名は、王家の故事に因んで「アルデガー号」と裁可された。
町の誰も、その名で呼ばなかった。進水の日、船台を滑り降りる姿を一目見た誰かが「でかいホルテだ」と言い、別の誰かが「ありゃもうガルテだ」と言い直した。大鴨——鴨の親玉のことである。以来、あれは「国のガルテ」だ。ホルテ、ピルケときて、ガルテ。湖の舟の系譜は、名の上では、町がしっかり握っていた。書類の上の名と、桟橋の上の名。二つの名を持つ船は、二つの世界に同時に属している——というのは考えすぎで、単にハルデンの命名がいつもの調子だっただけである。
船は、良い船だった。
竜骨が入り、六人と道具を積んで沖に一日いられる。帆柱が立ち、風見の三月分の記録に基づいて裁たれた帆が張られ、初めて帆走した日には、断崖に見物が鈴なりになった。櫂の舟しか知らない町の目に、風だけで水を切っていく船は、ほとんど手品だった。水夫長は操船しながら「湖の風は素直でいけねえ」とぼやいた。素直で何が悪いのかは、海の男にしか分からない理屈らしい。
本調査は、秋の終わりの二週間、拍子抜けするほど順調に進んだ。
測深の索は毎日規則正しく上げ下ろしされ、湖の底の形が、日ごとに図面の上に現れていった。岸から緩く深くなり、中央部で急に落ち込む。最深部は索が二本継ぎでようやく届いた。水は汲まれ、瓶に詰められ、封をされて王都行きの荷に積まれた。魚の帯の分布、主二頭のそれぞれの縄張り(湖を東西に、律儀に分け合っているらしいことが知れた)、岸辺の底質。図面の空白は、順調に埋まった。
順調のあいまに、特記事項も、順調に増えた。
沖の一点に立ちっぱなしの雨の柱には、船で間近まで寄った。柱の縁は、驚くほどくっきりしていた。船が脇を掠めると、右舷の半分だけが濡れ、左舷は乾いたままだった。雨柱の中の水面だけが細かく泡立ち、柱の外は凪いでいる。雨は、汲んでみれば、ただの真水だった。ただの真水が、雲もない空から、同じ場所に、降り続けている。特記事項第二十四号。
水中から生える大木の根元では、測深の索が湖底に届かなかった。正確には、湖底には届くのだが、木の根はその湖底を貫いて、なお下へ続いているのである。どこまで、は分からない。索が、それ以上継げなかった。博物方の若手は「浮き島の類ではない。あれは、この湖より深い場所から生えている」と記録し、記録してから、自分の書いた文の意味を考えて、しばらく黙った。
光る魚には、桶を使った。網を通るなら、器はどうか——という素朴な思いつきである。夜、光の帯の中へ桶を沈め、帯が通りかかった刹那に、水ごと一息に引き上げると——掬えた。桶の中で、指ほどの光が二尾、悠々と泳いでいる。歓声が上がり、水夫長が桶に手を入れ——指は、光を、素通りした。触れない。掬えるのに、掴めない。水ごとなら容れられるのに、それだけを取り出すことは、できない。特記事項第二十七号は、書き役が三度書き直した。物の在り方について、王国の言葉は、語彙が足りていなかった。
二尾は、湖には戻されなかった。桶ごと湖岸の観測小屋に据えられ、観察が続くことになったのである。触れないなら触れないなりに、試せることは山とある。まず餌だ、と博物方が言い、パン屑、魚の欠片、藻、干し虫と、手当たり次第に与えてみた。二尾は、どれにも見向きもしなかった。見向きもしないどころか、沈んでいく屑は二尾の体をすうすうと通り抜けて、桶の底に積もった。食わない魚は珍しくもない(ヨスト爺に言わせれば「冬の鱒は半年食わん」)ので、そこは誰も騒がなかったが、餌が体を通り抜ける餌やりというものを、飼育と呼んでいいのかどうかは、誰にも分からなかった。二尾は今も、観測小屋の隅で、静かに光っている。夜の小屋は、おかげで灯りが一つ、要らなくなった。
それでも、船は毎日戻り、図面は毎日太り、誰も欠けなかった。技師グレルの中間報告は簡潔である。「湖水域ノ調査、概ネ了ス。残スハ北東部、霧ノ海域ノミ」。
残すは、霧のみ。
その一行を書くために、二週間があったようなものだった。
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会議は、監督府の広間で開かれた。
卓の上には湖の図面。ほぼ埋まった図面の、北東の一角だけが、白い。技師グレルは、その白を指した。
「——指令は、全域です」
異を唱える者は、いなかった。唱えたい者は大勢いたが、唱える言葉が無かった。国の指令書は明快で、湖上気象、の四文字は名指しでそこを指している。後回しの箱は、箱である限り、いつかは開く。開ける日が、来ただけである。
「入りたい奴なんぞ、いませんぜ」水夫長が、それでも言った。「腕のある漕ぎ手ほど、嫌がります」
「知っています。だから、腕に頼らない段取りを組みます」
グレルの案は、こうだった。港と船とを、太い麻綱で結ぶ。長さは十分に取り、綱は繋ぎながら繰り出す。霧の中で方角を失っても、綱を手繰れば、必ず港に還る。突入の日取りは、霧の巡回が港側へ最も寄る日——司祭の記録から割り出せる——を選び、綱の入り用を最短にする。船内での作業は刻限を切り、刻限が来たら、観測が途中でも引き返す。
「泳ぎ達者を二人、綱の傍に置きます。眠った者が出たら、縛って引けばいい。……あの霧の中身が何であれ、我々の知る限り、あれは殺しません。眠らせるだけです。眠った人間の扱いなら、我々は知っている。要するにこれは」技師は、図面の白を、とんと叩いた。「未知の海域の測量です。それ以上のものとして扱うと、段取りを間違える」
それ以上のもの、の席に着いている者たちが、この裁定をどう聞いたかは、顔ぶれによる。
乗員の選定は、揉めた。ただし、揉め方が二方向だった。
乗りたくない側の筆頭は、漕ぎ手である。国の日当は弾んだが、金の話ではないのだった。結局、テオが指名を受けた——入って、出てきたことのある、数少ない男である。テオは一晩考えて、受けた。理由を聞かれて「……綱があるなら」とだけ言った。もう一人の漕ぎ手には、勝手小屋の三人組の一人が、日当の額を聞いて手を挙げた。町の決まりの外の男が、町の誰も欲しがらない席を拾った形である。
乗りたい側の揉め事は、もっと騒がしかった。ローデン老は当然の顔で名簿の頭に自分の名を書き、グレルが年齢を理由に難色を示すと、「儂を降ろす理屈を、先に測ってから言え」と返した。博物方の若手は星図を抱えて志願した(霧の内の空の話は、聴き取りで読んでいる。照合できる目は自分しかいない、という言い分は、正しかった)。レンは画材一式の持ち込みを願い出て、重量の勘定で顔料を半分に減らされ、三日かけてどの色を置いていくか悩んだ。
そして、ファルクである。
司祭の同行願いは、あっけないほど、すんなり通った。一年、防波堤と相場と身体知に阻まれ続けた扉である。それが、国の書式の前では、審査もなく開いた。グレルの言い分は実務そのものだった。「霧について、この王国で一番多く書いたのは司祭どのです。記録者を置いていく理由が、私には見つからない」。
一年の重みは、書式の一行に負けた。負けて、扉は開いた。ファルクはその晩、灯りの下で、持ち込む書き付けを選り分けながら、自分の手が微かに震えているのを、他人事のように眺めていた。
乗員は、九名と決まった。指揮グレル。操船に水夫長と船大工。漕ぎ手テオ、勝手小屋のニクラ。観測にローデン老と博物方のユリス。記録にレン、ファルク。陸側では、ヴァリクが係留索の元を預かり、港には医者と(念のための)寝台が支度された。
ヨスト爺は、乗らない。乗らないが、出航の前日、桟橋でテオを捕まえて、一言だけ言った。
「……綱はな、坊主。手繰るときに慌てるな。慌てて手繰る綱は、絡む。ゆっくり手繰れ。ゆっくりで、間に合う」
間に合う、の根拠を、爺は言わなかった。言わなかったが、テオはその晩、よく眠れた。年寄りの言葉には、根拠の代わりに目方が入っている。
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出航の朝は、風のない、上等の晴れだった。
霧は、記録の通りの日取りで、港側の海域に寄っていた。岸から見れば、白い塊が、いつもより近い。近いと、大きい。大きいと、静かさが、際立つ。
ガルテは綱を曳いて桟橋を離れ、九人を乗せて、白へ向かった。港の普請は止まり、加工場の火は落とされ、岸に居合わせた者は皆——人足も、漁の連中も、勝手小屋の残りの二人も——手を止めて、水際に並んだ。百人に足りるかどうかの人数である。誰も、歓声は上げなかった。進水の日とは、別の静けさだった。
遥か後ろ、台地の断崖にも、人は出ていた。あの高さからなら、湖はまるごと見下ろせる。白い塊と、そこへ這い寄っていく黒い点——見えるのは、それだけである。それだけを見に、夕涼みどころではない人数が縁に並び、目の良い者が「入った」「まだだ」を逐一告げ、告げられた者が後ろへ回す。町は、遠くから、全体を見ていた。
岸は、近くから、一点を見ていた。船が白の縁に達し、舳先が呑まれ、船体が呑まれ、艫の綱だけが白の中へするすると繰り出されていく——岸の全員が、綱の動きだけを、見ていた。
綱は、動き続けていた。
動いている限り、船はある。百に足りない目が、一本の麻綱に、束になってぶら下がっていた。
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観客席・その十一
一個だけ。今回は言っとかないと、観てるこっちの収まりがつかない。
あの命綱な。太くて、立派で、段取りも完璧だ。グレルさんの仕事に文句は一個もない。持ってる情報から組める最適解だと思う。
思うんだが——相手、攻撃力ゼロなんだよ。
夢泡は0/1。傘の本体は4/8だけど、あいつは自分からは何もしない。つまりあの霧の中に、人間を害せる数字が、一個も無い。最悪の事態が「全員ぐっすり」。それに対して人類が用意したのが、太さ二寸の麻綱と、泳ぎ達者二名と、医者と寝台。……天蓋付きの寝床に落ちる心配をして、命綱を張ってるようなもんでね。
でも、笑えないんだよな、これが。あの人らの帳面には「攻撃力」の欄が無いんだから、綱を張るのが正しいんだ。俺だけが答えの書いてある問題用紙を持ってて、あの人らは白紙から満点の答案を書こうとしてる。
綱、動いてる。
いってらっしゃい。中身は保証する。保証を届ける手段が無いのが、うちの劇場の、いつもの難点だけども。




