第十三話 図面と特記事項
専門家というものが分かるのは、彼らが最初の三日、何も作らなかったことである。
国の派した一行は、七人だった。普請方の技師グレルを頭に、ミュレ水系の堰と河港を渡り歩いた水運方が二人、リーヴ同盟の海で二十年働いて戻った船大工と水夫長、それに製図工と書き役。着いた翌朝から、七人は湖岸を歩いた。歩いて、測って、訊いた。作らなかった。
訊かれる側は、大抵テオだった。数える係は、答える係を兼ねることになった。
「あの桟橋の、水深は」
「……測ったことは、ないです」
「荷揚げは日に何貫」
「日によります。多い日で……百貫くらい、ですかね」
「風は。朝と夕で向きが変わるか。季節では」
「変わる、と思います。漁の連中は読んでますが、帳面には……」
「では、測りましょう」
では、測りましょう。この一句を、テオは三日で三十回は聞いた。責める調子は微塵もない。無いものは測る、それだけの話だ、という顔である。四日目には湖岸に風見の柱が立ち、水深を測る印付きの索が桟橋から下ろされ、テオの「答える係」の仕事は、早くも半分に減った。答えは、これから帳面の側に生えてくるのである。
町の半年が軽んじられたわけでは、ない。むしろ逆だった。
海帰りの船大工は、着いて早々ホルテを検分に来た。腹の下に潜り込み、継ぎ目を撫で、松脂の目止めを爪で突き、半刻かけて出てきて、棟梁に言った。
「川舟の写し一艘から、これを起こしなすったか。……図面も無しで」
「図面なんぞ、引けんでな」
「引けんで、これか」船大工は、もう一度舟の腹を見た。「あんた、腹の張りをどこで覚えた」
「屋根で」
「……屋根で」
船大工はしばらく黙り、それから、悪くない、と言った。海の男の悪くないは、王都の褒め言葉三つ分に相当することを、棟梁はまだ知らない。知らないまま、その晩は機嫌が良かった。
石舟の輸送記録に至っては、技師グレルが写しを取らせてくれと言い出した。丸太の枕、牛二頭、日に三里——「輸送計画として、手本のような仕事です」と技師は言い、ヴェルナー老は「六十年前の坑道の手本の、また写しよ」と返した。町の半年は、こうして次々に「先行事例」という名の書類になっていった。書類になる、というのは、半分は誉れで、半分は、追い越される側に回ることである。
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追い越しは、速かった。
十日目には、港の予定地が決まった。現在の加工場のやや北、岸が緩く湾になって風を躱せる一角である。選定の資料には、水深の実測と底質と風向きのほかに、もう一枚、写しが綴じられていた——霧の巡回路の推定図。ファルク司祭が二月、同じ石に座って書き溜めた方位の記録を、ローデン老が読み解いたあの軌跡である。港は、霧の道から最も遠い岸に置く。信仰の照合のために取られた記録が、港湾の図面の入力に化けたことについて、ファルクが何を思ったかは、記録にない。
新しい舟の図面も、引かれ始めた。平底のホルテ型ではない。竜骨を入れ、測深の道具と六人を積んで沖に一日留まれる、帆走もできる調査船である。帆、と聞いた町の側は首を捻った——あの湖の風で帆が使えるのか、誰も知らない。「だから風見を立てたのです」と技師は言った。答えの無い問いを、答えられる形に刻み直してから答える。専門家の仕事は、要するにその繰り返しだった。
漁の資源については、専門家たちは、拍子抜けするほど何も騒がなかった。
獲っても減らない、という町の(声を潜めた)説明に、水夫長は肩を竦めただけである。
「旦那がた、鰊の群れを見たことがねえんで。北の海じゃあ、群れが来りゃ、水が銀色になって、掬っても掬っても減りゃしません。良い漁場ってのは、そういうもんでさあ。……減らねえ魚は、心配の種じゃねえ。心配すんのは、獲った魚の行き先で」
行き先。すなわち、塩と、燻しと、樽と、道。物流である。それこそが彼らの本領で、だから専門家たちは湖の中身を深追いせず、まっすぐ港へ向かった。資源は心配ない、心配なのは運ぶ方——この診立ての限りにおいて、国の事業は、何の不気味もなく、疾走した。
疾走の傍らで、別の帳面だけが、静かに厚くなっていった。
報告書の末尾の、特記事項の欄である。
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特記事項第八号は、夜の試験網だった。
水中で光る魚の帯のことは、町から聞き取り済みである。資源目録に載せるため、水運方が夜、明かりを消した舟から試験の網を入れた。光の帯は素直に網の口へ流れ込み、水夫長の合図で網が絞られ、上げられ——空だった。
網は、破れていない。目の一つも切れていない。濡れて、藻の切れ端が絡んで、網として完全に仕事をした形で、空だった。光の帯は、と見れば、舟の反対側の水中を、何事もなかったように流れていく。網を、通り抜けたのである。綱にも目にも触った手応えすら、無かった。
水夫長は上げた網を長いこと検め、目を一つずつ指で繰り、それから、誰にともなく言った。
「……破れて、ねえ」
破れていない網を、通った。事実は、その二つだけである。二つで足りた。特記事項第八号の記述は短い。「発光魚群、網具ヲ透過ス。網具ニ異常ナシ」。異常が無いことが異常である、という種類の文章を、書き役は書き慣れていくことになる。
第十一号は、人間の側から生えた。
水運方の若い方が、ある晩の飯場で、主の話を聞いて目を輝かせたのである。牛ほどの魚。二頭。曰く——「あれを一尾、生け捕りにして王都へ運べたら、市が立ちますよ。見世物なら国庫が潤う。網を三重にして、舟を四艘で囲めば——」
席が、凍った。
凍った席の中から立ち上がったのは、ヨスト爺である。爺が飯場で声を荒げたのを、テオはこの晩、初めて聞いた。
「——若いの。あんた、儂より魚を知っとるか」
「い、いえ」
「儂は五十年、川で魚と付き合った。その儂が、あれを見た日に何と言ったか、教えといてやる。ああいうのはな、網の側が獲られるんだ。……四艘で囲む? 上等だ。四艘まとめて、鼻先で裏返される絵しか、儂には見えん。あれはな、こっちに関心が無いから泳がせてくれとるだけだ。関心を持たれてみろ。持たれた日にゃあ——」
爺はそこで言葉を切り、切ったまま座った。続きは誰も聞きたがらなかった。技師グレルの裁定は簡潔だった。「捕獲は調査事項にない。以上」。若いのは首を縮め、件は落着した——表向きは。帰り際、グレルがヴァリクにだけ漏らした一言を、ヴァリクは帳面の隅に書き留めている。「今は、な。だが東の帳簿が王都で読まれるたび、同じことを思いつく人間が、湧く。いずれ、上のほうから言ってくる。……そのときに断る理屈を、今のうちに測っておくことだ」
第十四号は、白昼の測深中に来た。
沖合、岸から四百歩。索を下ろしていた調査の舟の脇を、それは、通りがかった。虹色の、光の玉。人の頭より一回り大きいのが一つと、拳ほどのが七つ。水面から人の背丈ほどの高さを、ふよふよと、風とも関わりのない速さで。
舟の上の六人は、手を止めた。玉は、止まらなかった。舟から十間ほどの距離を保ったまま、脇を、ゆっくりと、通り過ぎた。色は流れ続け、小玉は大玉に付いたり離れたりし、要するに、何もしなかった。何もしないまま遠ざかり、水面の照り返しに紛れて、見えなくなった。
六人のうち四人は、腰の得物やら索やらを握り締めたまま、固まっていた。残る二人は町の漕ぎ手で、うち一人はテオである。テオは固まる四人を見回して、少し申し訳なさそうに言った。
「……ああ、虹の。おるんですよ、あれ」
「おる、って、あんた」
「おるんです。何もしません。前に岸で会ったときは、逃げられました」
逃げられました、の一言が、四人を余計に混乱させた。技師グレルは咳払いをひとつして、作業に戻ってください、と言った。索は再び下ろされ、測深は続き、その日の数字は全部きちんと取れた。特記事項第十四号。「発光浮遊体一(随伴七)、作業現場ヲ通過ス。作業ヘノ支障ナシ」。
支障なし。まったく、何の支障もなかったのである。それが、四人の夜の寝付きに支障を来したことは、報告書には載らない。
もっとも、寝付きの悪さも、長くは続かなかった。虹の玉は、以後もときどき現れた。測深の舟の遥か先を横切ったり、朝の岸辺を流れていったり、船台の上空を(杭打ちの音など意にも介さず)通過したり。何もしないことが行き渡ると、恐れの席に、別のものが座った。見た日は運がいい、と誰かが言い出したのである。根拠は、無い。無いのだが、朝の飯場で「今日、虹を見た」と言う人足は、その日一日、どことなく得意であり、周りも「ほう」と言ってやるのが礼儀になった。逃げられた話のテオに至っては、目が合ったことのある男、という妙な格まで付いている。
特記事項の帳面のほうは、第十四号を最後に、虹の記載が絶えた。目撃が絶えたのではない。目撃が、日常になったのである。日常は、特記の反対語である。
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そして、霧である。
水夫長が初めて沖の霧をまともに見たのは、着任から半月ほど経った、よく晴れた朝だった。風見の検分のついでに岸に立ち、沖の白い塊に目を留め、そのまま、四半刻、動かなかった。
傍にいたテオが、町の知っていることを一通り話した。動かないこと。日で散らないこと。決まった道を回ること。中に入った者の話。水夫長は黙って聞き、聞き終えて、一言だけ言った。
「——気色わりい」
「……怖い、じゃなくてですか」
「怖かねえよ。あれが何か知らねえが、こっちが近寄らなきゃ何もしねえんだろ。なら怖かねえ。……そうじゃなくてな、坊主。俺は海で二十年、霧と付き合った。霧ってのはな、風で動く。日で散る。縁がぼやける。決まった道なんぞ回らねえ。それが霧ってもんだ。あれは、その全部を、やらねえ。……霧の形をした、霧じゃねえ何かが、そこにいる。分かるか。知ってるもんが、知ってる通りに動かねえのを見るとな、人間、怖いより先に、気色悪いんだ」
この評は、その晩のうちにヨスト爺の耳に入り、爺は翌日、水夫長のところへわざわざ出向いて、初めて口を利いた。
「あんたも、近寄らん口か」
「近寄らねえね」
「儂もだ。儂はな、知らんものには近寄らんことにしとる。知らんから、近寄らん」
「……妙な理屈だな、爺さん。俺は逆だぜ。霧ってもんを知ってるから、あれが霧じゃねえと分かる。分かるから、近寄らねえ」
「知らんから近寄らんのと、知っとるから近寄らんのと、どう違う」
「そりゃあんた、全然違う——」
違う、の中身は、半刻話しても嚙み合わなかったという。嚙み合わないまま、二人は以後、岸で会えば黙って頷き合う仲になった。結論の一致した者同士は、理屈が揃わなくても、やっていけるのである。
かくして、調査計画の一覧表の上で、霧の海域の測深の行だけが、「後日」の欄に移された。禁じた者は、いない。技師は禁じず、町の決まりは国の舟に届かず、大灯座は何も言ってこない。ただ、舟を出せる腕を持つ者が全員、あの海域にだけは舟を向けたがらない。誰の判も要らない後回しほど、動かし難いものはない。
ファルクがその一覧表を目にしたのは、観測台の定例の席上である。司祭は「後日」の三文字を長いこと見て、何も言わず、自分の書き付けに何かを短く記した。国の舟は来た。霧は、遠いままだった。
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起工は、月の終わりの、よく晴れた日だった。
港予定地の湾に、船台の最初の杭が打たれた。掛矢の音が湖面を渡り、対岸には届かずに消えた。技師グレルは、その月の報告書の頭にこう書いた。「工程、予定ノ通リ。着工ヲ了ス」。そして末尾には、特記事項が、二十一件。
工程は予定通りで、特記事項は二十一件。この二行の間の距離が、すなわち、この湖と王国との、現在の距離だった。
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観客席・その十
今週は、種のある話だけ二つ。
まず、網をすり抜けた光る魚ね。あれ、網は何も悪くない。あの子ら、実体の無いほうの魚なので。ストレージ組らしくて詳細は俺も知らんのだけど、ああいう「触れない系」の種族はいる。破れてない網を通られたら、そりゃ人間側は「破れて、ねえ」しか言えんよな。事実だけ数えたら、ほんとにそれしか言うことがないんだ、あれ。
それと、主の生け捕り計画。やめとけ、はヨスト爺さんが言い尽くしたので、俺は飼い主(?)として数字の裏付けだけ置いとく。あいつ、4/5です。パワー4、タフネス5。四艘で囲む? あんたらの舟と網、タフネス換算でいくつのつもりだ。ぶつかって壊れるのは、舟のほうだぞ。……いや、あいつのことだから、多分ぶつかる前に避けてくれるけど。温厚なので。温厚さに甘えるな、って話です。
以上。あとは、見ての通り。




