幕間 涙と鱗
セルネの丘は、変わり果てていた。
ダンの記憶にあるあの丘は、羊と処刑台のほかに用のない、草の禿げた寂しい高みである。それが今や、麓から頂まで、点々と筵と幟が続いている。休みの日とあって、見物の列は途切れない。子連れ、若い男女、田舎から出てきた風の一団、写生の道具を担いだ学生。ダンは素面の商売人の目で、それらを一つずつ検分しながら、坂を登った。
商いは、三層になっていた。
麓は飲み食いである。焼き腸詰、麦酒、飴(ここにも飴売りがいる。王都に飴売りは何人いるのか)。中腹が土産物で、これが本命だった。筵の上に、黒い塊が大きさ別に並んでいる。竜の涙——ブレスで灼けてガラスになった地面を、砕いたものである。小指の先で銅貨五枚、親指大で十枚、掌ほどの板状のは銀貨が付く。よく売れていた。隣の筵では「竜の鱗」も売っていた。赤銅色に塗った、貝だか瓦だかの円盤である。売り子の口上が振るっていた。
「——本物は武具廠の奥にござい、番兵つきの祈祷つき! お上がそこまでして隠すものの、こいつはその写しでございます!」
本物が見られないことが、写しの売り文句になっている。ダンは感心した。見せて売る自分とは、逆の商法である。逆だが、理屈は通っている。
頂に近づくと、いよいよ本丸だった。獣の座った一帯——地面が飴色に流れて固まり、日を受けててらてらと光る、広場ほどのガラスの原である。見物はその縁にたかって、覗き込み、触り、そして、隙を見ては金槌を振るっていた。土産屋に卸す採掘人である。縁のほうはもう、あらかた砕き取られて、ガラスの原は目に見えて痩せ始めていた。
その縁で、怒鳴り声がした。
「——やめんか! 何度言わせる! ここは学芸院の調査地であるぞ!」
学芸院の腕章を巻いた中年の学士が、金槌の男に食ってかかっている。男はへらへらと下がり、学士が背を向けると、別の縁でまた金槌が鳴った。もぐら叩きである。学士は肩を怒らせて見回りに戻った——その鞄の口から、布にくるんだ黒い塊が覗いているのを、ダンは見た。標本、と呼ぶのだろう、ああいうのは。砕けば盗掘、包めば標本。世の中の言葉は、便利にできている。
見回りには、番人も雇われていた。麓の羊飼いの爺様である。学芸院から日当を貰って「採取禁止」の札の横に座り、座りながら、自分の筵で竜の涙を売っていた。ダンは爺様から一番小さいのを一粒買い(市場調査である)、ついでに聞いた。
「爺様。番人が売っていいのかい」
「わしが売っとるのは、札を立てる前に拾った分じゃ」
「ほう。よく売れるね、札を立てる前の分が。毎日」
「毎日、札を立てる前に拾っといたのが、出てくるんじゃ」
大した理屈である。ダンは丘を下りながら、勘定を締めた。市場は盛況、ただし出物は石ころ、競合は無数、目玉は「見られない本物」。——うちの店とは、客の食い違う商売だ。腕は、稜堡から動かさない。動かねえのが格、の結論は変わらなかったが、一つだけ、拾いものがあった。土産屋どもの口上に、近頃、新しい文句が混ざり始めているのである。
曰く——武具廠の本物は、三枚ござい。そのうち一枚は、それはそれは別嬪で、夜ごと、ひときわ美しゅう光るそうな。
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武具廠の保管庫の当直室で、その「別嬪」は、確かにそう呼ばれていた。
老番兵のヘスケに言わせれば、名付けたのは自分たちではない。区別が、勝手に名を連れてきたのである。三枚の鱗は、半年も夜ごと検めていれば、嫌でも見分けがつく。丘の頂で拾われた一番大きいのは、縁の反りが優美で、光沢に曇りがなく、夜の光り方も一番白い。これが「別嬪」。稜堡の瓦礫から掘り出したのは、縁が一箇所欠けていて、「欠け」。残る中腹の一枚は、光が心なし鈍いので、「鈍」。当直の引き継ぎ帳には番号で書くが、口で言うときは、別嬪、欠け、鈍である。そのほうが、間違いがない。
間違いがない呼び方が、上のほうでは、間違いの元と見なされているらしい。
先だって、お達しが出た。当該物品に対する俗称の使用を禁ず。三枚の取り扱いに軽重の別を設くるべからず。祈祷の対象順序は毎回入れ替えるべし——。ヘスケは達しを読み上げ、若い番兵と顔を見合わせ、達しの通りに番号で呼び直そうとして、三日で全員が元に戻った。順序を入れ替えろというお達しのほうは、もっと奇妙な効き方をした。毎回順序を変えるためには、毎回「どれが別嬪か」を意識せねばならない。特別扱いを禁ずる手続きが、特別を毎晩、点呼させるのである。
事の起こりは、祈祷の司祭の報告だという。月に一度、灯りを捧げに来る老司祭が、報告書に一行、書いたのだそうだ。三枚のうち一枚、殊に光沢玲瓏にして、灯を捧ぐるに、心自ずから粛然たり——。この一行が大灯座で回し読まれ、あちらの偉い方々の間で、何やらの論争に火が付いた。当直室に降りてくるのは、その煙の匂いだけである。俗称禁止令の煙、順序入れ替え令の煙。煙の下でどんな火が燃えているのか、番兵の知るところではない。
知るところではないが、ヘスケには、夜ごと見ているものがある。
灯りを落とした保管庫で、三枚は、ほの白く光る。半年、一晩も欠かさず。触れれば、夏の石垣の温かさが、半年、一度も冷めない。ヘスケは若い頃から信心の薄い男で、今もそうだが、それでも夜半の巡回であの三枚の前に立つたび、思うことは思う。——この国で、理屈の付かない光りものといえば、灯堂の常火は人が薪を足しとる。これは、誰も、何も、足しとらん。
足さずに光るものを、人はいつまで、ただの石として蔵っておけるものか。
ヘスケは番兵であって、賭場の男ではないが、この賭けの目だけは読める気がしていた。
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その火元——大灯座の論争に、外から薪をくべた者がいる。学芸院である。
くべたのは、万象学のオットマー教授。ダンの腕を月に二度検分している、あの学者であり、鱗の面会日(月四日)の常連であり、そして学芸院における「鱗研究の手詰まり」の、当事者中の当事者だった。
手詰まりの中身は、単純である。斬れず、削れず、溶けぬものは、中が見られない。外から測れることは、半年で測り尽くした。残る道は長期の観察——熱の出入りを昼夜通して記録する、光の強弱を季節で追う、傍に置いた物への影響を年単位で見る——だが、月に四日、番兵立ち会いの面会では、どれ一つできはしない。研究に要るのは面会ではない。同居である。
そこへ、大灯座の分祀論争の噂が聞こえてきた。祀る派は「別嬪」の聖別と灯堂への遷座を望み、埋める派は獣の一部を祀る教義上の危うさを説いて譲らない。論争は膠着している。膠着の理由の一つは、俗権側——鱗は王室財産である——が、どちらにも肩入れする理由を持たないことだった。
オットマー教授は、肩入れする理由を、作って進呈することにした。
教授が尚書局に出した意見書は、後々「オットマーの三方良し」と(ごく狭い範囲で)呼ばれることになる。骨子はこうである。
一。教会が一枚の聖別を望むなら、俗権はこれを妨げる理由がない。信仰の篤きは国の益である。
一。ただし、聖別された一枚が真正の物であることは、末代までの検証に耐えねばならない。贋物を拝ませたとあっては、教会の権威に関わる。よって、真贋の照合基準となる一枚を、学術の側が恒常的に保持し、記録し続ける必要がある。聖なる一枚の証は、俗なる一枚が立てるのである。
一。この措置により、武具廠の保管は三枚から一枚に減じ、警備の費えは三分の一となる。
読んだ者が読めば、二条目が本音であることは明白だった。教会に「別嬪」をくれてやる代わりに、「欠け」を学芸院の実験室に置く。教授は信仰に興味がない。興味がないから、一枚を祭壇に持っていかれることが、少しも惜しくない。惜しくないどころか——祭壇に上がる一枚の「証明」という永代の役目を、手元の一枚に付けてしまえば、教会が続く限り、学芸院の鱗研究に予算の口実が続く。信仰の篤きは、まことに、国の益である。
尚書局は、この意見書を歓迎した。膠着した宗教論争に、俗な出口を付けてくれたからである。軍務局は歓迎した。当直が減るからである。出納院は歓迎した。費えが減る上、王室財産の名目は三枚とも動かない(聖別も研究保管も「貸与」の形式である)からだ。祀る派は、聖別の実現に俗権の後押しが付いたことを歓迎した。埋める派だけが歓迎しなかったが、埋める派の論拠——特別扱いの危うさ——は、皮肉なことに、既に丘の土産屋の口上にまで「別嬪の噂」が流れている今、特別扱いを止めれば済む段階を過ぎていた。
かくして、半年前にあれほど揉めて決まった「三枚一括、武具廠保管」の折衷は、一年を待たずに、静かに解体されることになった。別嬪は、日を選んで大灯座へ遷る。欠けは、学芸院へ。鈍だけが、武具廠に残る。
遷座の日取りはまだ決まっていない。決まっていないが、大灯座が「聖別の儀は、市民に灯りの功徳を分かつため、行列をもって公に行う」方針であることは、早くも市中に漏れていた。
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その噂を、ダンは学芸院の検分日に、オットマー教授の口から直に聞いた。
「——行列、ですかい」
「行列だ。大灯座から武具廠まで迎えの行列が出て、担ぎ輿で運ぶそうだ。沿道は人で埋まるだろうな。……おい、引っ張るな。写生の途中だ」
ダンは断面を検分されながら、頭の中で、沿道の見取り図を広げていた。行列。見物。人垣。人垣のできるところ、銭の落ちるところ。稜堡から動かねえのが格、とは言ったが、行列の日だけは、話が別である。何せ向こうから、王都中の見物が、通りに出てきてくれるのだ。
「先生。その行列、道筋はもう決まってますんで?」
「さてな。……なんだ、その顔は」
「いえね」ダンはにっこりした。「本物の腕は、動かねえのが格なんですがね。——祭りの日くらいは、出店ってものが、あってもいいかと思いまして」
教授は呆れた顔で写生に戻り、それから、写生の手を止めずに言った。
「場所を取るなら、武具廠の門の近くにしておけ。……行列というのは、出発点が一番、押すものだ」
学者の言うことは、聞いておくものである。
なお——この遷座の計画書が各所を回り始めた頃、書類の隅の「移送」の二字に、真っ先に眉を寄せた男が尚書局にいた。半年前、四枚目の鱗が「移送中の毀損により消失」した件の、受領書の束を検めた当人である。男は計画書の余白に、短い意見を書き付けた。曰く——移送経路ノ警備、及ビ現物照合ノ手順ニ付キ、格段ノ配慮ヲ要ス。前例アリ。
前例あり。役所の言葉で、これほど多くを語って、これほど誰にも読まれない二字も、ない。




